「師」というもの2011-01-31

2011-01-31 當山日出夫

これは、Twitterに書いたことなのだが、ここにも書いて見る。

人は、「師」をえらぶことはできない。「師」はあとになってから気づくものなのである。あの人が自分の「師」であったのだと。そして、「師」と「指導教員」とは違うものなのである。

だいたい、このようなことを書いてみた。

このこと、実は、先日のウィキペディアの会の懇親会の席で、ふと思ったことなのでもある。自分が、なぜ、今のように考えるのか、それに対する、教育や先生の影響とは、どのようにあるものなのか……このようなことを漠然と考えているうちに、上記のようなことを語っていた。

ただ、今になって思うのだが……これは、「師」というものをもつ体験を得た人間だから言えることなのだろう。これは、運・不運があるのかもしれない。これまでの人生のなかで、「師」といえるべき人に巡り会うことのできなかった、という人もいるのかもしれない。

ウィキペディアからいろんなことを考えることができる。そのなかの一つに、「知」の継承ということがある。たんなる、教室での授業の伝授ではない。それを超えたところにある、異質な何かである。それは、「師」としか呼びようのない人の存在である。

このような体験が根底にあると……ウィキペディアのような知識の世界に、なにかしら、違和感を感じるというのも、どうしても残るのである。(だからといって、ウィキペディアが悪いというつもりはない。)

そうはいっても、ウィキペディアは、学知の継承という観点からは、根本的な問題点をなげかけている、ということはいえそうに感じるのである。それが、どのようであるのか、まだ、うまく整理はできていないのであるが。

當山日出夫(とうやまひでお)

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