Twitter雑感2016-05-20

2016-05-20 當山日出夫

ここしばらく、数年の間、Twitterをかなり使っていたと昨日書いた。今でも、使っている。朝起きてパソコンを起動すれば、メールのチェックと前後して、Twitterを見るのが習慣になっている。昼間でも、頻繁に見たり書いたりしている。

Twitterでも、私は、名前を出している。當山日出夫(htoym)の設定にしてある。(だから、私のことをTwitterで探そうと思えば簡単である。)

Twitterで守っていること、というほど大げさなことではないが、方針のようなものを書いておこう。それは、自分の名前を出して書いてもかまわない範囲のことしか書かない、といういわば自己規制のようなものである。

Twitterは、ある意味で匿名の世界でもある。ほとんどのユーザが、自分の名前を出さないで書いている。しかし、中には、自分の名前を明らかにして書いている何人かの人がいる。そして、たぶん、そのような人の多くは、私はフォローしているし、また、逆に、私のことをフォローする人は、名前を明らかにしている人が多い。大きな傾向からすれば、いわゆる「研究者」に属するような人は、自分の名前をわかるようにして使っていると思われる。

匿名で、言いたいことを言うだけの世界として使うこともできる。しかし、ある程度、自分の氏素性を明らかにした上で、その名前を出して書いてもかまわないと判断されることを書く、これも一つの使い方である。

だからといってたいしたことを書いているわけではない。所詮、140字のメッセージである。書いてることは、ほんの日常的なささいなこと。飼っている猫の様子とか、聞いている音楽のこととか、読んでいる本のこととか(ほとんど、タイトルとごく短い感想に限られるが)、それから、NHKの朝ドラ(今の放送であれば、『とと姉ちゃん』である)の感想などである。

これも、ある意味で、結構、気晴らしにはなっていると自分でも思う。疲れて帰ってきてぐったりしているようなとき、「パトラッシュ」と書いてみたり。(さすがに、これは、最近ではやっていないが。)

一方で、これは書かないと決めていることもある。政治的なことは基本的に発言しない。私なりに、今の政治状況について何も意見が無いわけではない。しかし、これについては、原則的に、黙っていることにしている。

それは、Twitterの140字の限定では、政治的なことについて、その意見を持つにいたった背景までふくめて、説明することが難しいと感じるからである。結論だけ言うのは簡単である。しかし、政治的な言明というのは、結論よりも、なぜ、そのように考えるのか、背景について述べることではないだろうか、と思うのである。

結論だけを言う、レッテルをはることは、簡単である。今の政権に対してであれ、野党(民進党・共産党など)に対してであれ。しかし、何故、私はそのように考えるのかについて、理由を説明するには、不向きだと感じる。いや、自分の立場に同じ意見をながめて、共感するだけに終わってしまいかねない。(そのこともあって、私の場合、あえて、できるだけ多様な立場の意見の表明を目にするようにしている。意図的にそうしてきたというわけではない。使いはじめてから、あまりえり好みせずにフォローしていったら、結果的にそうなっているということなのだが。)

それから、FACEBOOKも設定はしてある。無論、これは、當山日出夫の名前で登録してある。(でも、あまり使っていない)。

ここで結論めいたことを書いてしまえば、近年の、そして、これからの、バーチャルな空間において、「情報発信」と「コミュニティの形成」、このバランスをどのように考えるか、このあたりが、TwitterやFACEBOOK、それから、ブログなどの、これからを考えるカギになるだろう。

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