天皇の女性的性格と『花燃ゆ』『八重の桜』2016-06-02

2016-06-02 當山日出夫

昨日にひきつづき大河ドラマに関連して思うことをいささか。

以前にすこし言及した。最近、松本健一の本をよく読むようになっている。その松本健一の本に書いてあったことである。どの本に書いてあったか、探すのが面倒なので……床に積み上げてある十数冊の本を見直す気になれないので、この点については、ご容赦ねがいたい。個別の本の感想などについては、これから、順番に書いていってみたいと思っている。

「天皇の女性格」についてである。言い換えるならば、天皇の女性らしさ、とでもいおうか。だが、これは、女帝・女性天皇のことではない。男性の天皇ではあるが、その性格は、きわめて女性的である、という指摘である。

今どき、「女性らしさ」「男性らしさ」などと言おうものなら、石がとんできそうであるが……しかし、この指摘は重要であるとともに、興味深いものである。

何故、日本の幕末・維新の歴史に女性が登場しないのか、それは、天皇が女性格であるからである、と松本健一は指摘する。「勤王」と言う。だがその心情に即して見れば、ほとんど恋愛に近い感情である。まだ見ぬ人にあこがれる、その人が自分のことを心にかけていることを知るだけで、感激してしまう。このような、いわば疑似恋愛とでも言うべきものとして、「勤王」の志を説明する。言われてみれば、なるほど、である。

幕末・維新といえば、NHKの大河ドラマを引き合いにだすのが、適当かと思う。すると、まさに、この考えがあてはまる。

昨年(2015)の大河ドラマ『花燃ゆ』は、さんざんであった。視聴率はほとんど最低の水準であったし、何よりも、見ていて面白くなかった。つまらなかった。(と、ここに書けるのも、一年間、ほとんど見ていた証拠でもあるのだが、それはさておくことにする。)

その理由はいろいろあるだろう。WEB上で指摘されていたことなどを思い出せば、企画そのもの(安倍首相の地元である山口を舞台にしたドラマを無理矢理作ったこと)の理不尽を指摘するものもあれば、歴史考証の不備を指摘するものもある。あるいは、脚本の不出来を言うものもある。

私見としては、理由として、二つ考えてみたい。

第一には、歴史考証の不足である。幕末・維新の歴史は、ドラマを見るような人なら誰でも一通りのことは知っている。だが、その背後にある「歴史観」はさまざまである。日本が開国にいたった理由、尊皇攘夷運動とは何であったのか、そのなかで草莽崛起の意味とは、明治維新は日本社会に何をもたらしたのか……などなど、さまざまな論点がある。だが、ドラマは、それらに何一つ明確な答えを提示していなかった。

その歴史観に賛否両論はあるだろう。しかし、だからといって、歴史を無視したところに歴史ドラマがなりたつはずがない。

第二には、女性を主人公としてしまったこと。たしかに、文(吉田松陰の妹、井上真央)を主人公に設定するところに、このドラマの基軸があったことは確かである。だが、それが成功したかどうかは、別の問題である。私は、失敗であったと思っている。女性を主人公(ヒロイン)にしてしまったために、勤王の志=天皇(女性格)への思慕を、うまく描くことができなかった。このように、私は見る。

この二つの点から見て、逆に、たくみに作ったと思われるのが、『八重の桜』(2013)である。視聴率はそこそこであったようであるが、ドラマとしてはよくできていたと、私は評価したい。

その理由は、上記、『花燃ゆ』が失敗したことの裏返しである。

第一に、「歴史観」を正面に打ち出したことである。幕末・維新といえば、これまでは、えてして勝った側、つまり、薩長の方、具体的には、坂本龍馬であり、西郷隆盛であり(西郷の場合、最後は悲劇の死をむかえるが)、ともかく、明治維新をなしとげた方を描くのが主流であった。それを『八重の桜』では、負けた側、つまり、会津のことを描いた。これは、幕末・維新をドラマとして描くうえでは、新視点であったと言ってよかろう。

第二に、「女性」の描き方である。主人公(ヒロイン)は、『花燃ゆ』と同じく女性(八重)である。だが、ドラマの前半においては、彼女は、「女性らしさ」で登場しない。女性でありながら、鉄砲に興味をもち、戊辰戦争では籠城戦をたたかう戦士として描かれる。つまり、きわめて「男性らしさ」で出てくるのである。

それでは、女性は出てこないかというと……出てくる……孝明天皇である。幕末最後の天皇である。この天皇、きわめてよわよわしい人物設定になっている。いかにも、それまで京都の宮中・公家社会のなかにいたという感じである。

そして、重要だと思うのは、会津の殿様(松平容保)の孝明天皇への心情のあり方である。ほとんど恋愛感情である。まだ見ぬ宮中の奥深くにひっそりといる天皇が、自分のことを頼りにしていてくれることに、容保は感激して、臣下としての忠誠をこころに誓う。

この孝明天皇が登場するのは、前半まで。戊辰戦争が終わって、明治なると、こんどは、八重が女性として登場することになる。新島襄の妻としてである。つまり、ドラマの前半では、「女性」の役割を孝明天皇がにない、後半では、それを八重がになった、という役割分担が、うまく成立している。

以上のように考えてみると……「女性格」としての天皇という、松本健一の言っていることは、かなり正鵠であると言えそうである。

ところで、来年(2017)のNHK大河ドラマは『おんな城主 直虎』。戦国時代における「女性」というものを、どのように描くか、このような観点から見てみるのも面白いのではないかと思っている。

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