内田樹・白井聡『属国民主主義論』2016-07-19

2016-07-19 當山日出夫

特に、決めているわけではないのだが、内田樹の本は、なるべく読むようにしている。そのいっていることに賛成というのではない。近年の内田樹の書いたものは、色濃く、その時代を反映したものになっている。それを、反省的に考えてみるのに、と思ってのことである。

最近の本は、対談。
内田樹・白井聡.『属国民主主義論-この支配からいつ卒業できるのか-』.東洋経済新報社.2016
http://store.toyokeizai.net/books/9784492212271/

はっきりいって、居酒屋談義と思っているし、そのように読んだ。双方、気楽に、自分の思っていること、感じていることを、しゃべっているだけのことである。そんなに、深く「対話」を通じて、思考を深めていこうという性質の本ではない。

だが、というよりも、だからこそというべきか、この本を読んで、なるほどと思った箇所をまず二つあげておく。内田樹の発言。

(内田)「僕は自分のことを「保守派」だと思っていますし、人から「右翼」と言われることもありますけど(以下略)」(p.85)

(内田)「ただ、僕自身も自分にファシズムへの親和性を感じて、けっこう危険だなと思うことがあるんです。僕は武道をやって、能楽やって、伝統的な祭祀や儀礼が大好きで、「農業再生」とか「里山に帰れ」というようなことをつねづね言っているわけですから、一歩間違えれば簡単にファシズムに行っちゃう。」(p.320)

たしかに、私は、内田樹の書いているものを読んで、このひとは保守的な発想をするひとである、とは思っていた。それが、この本では、自らが認めることになっている。

だが、私の考える「保守」とは、そこに常に理性的な反省……自分の依拠しようとしている伝統的価値・歴的価値は、本当ににそれでいいものなのだろうか……という理性的な反省をともなう、謙虚な姿勢を必須とする。だが、内田樹(特に近年の)には、それが見られない。ただ、伝統的な価値観を大事にするというだけでは、日本会議の連中と大差ない。

それから、ファシズムをどう定義するかにもよるが、「農業再生」「里山に帰れ」は、何もファシズムに限ってのことではないだろうと思う。いや、現代では、むしろ、逆に、このような発想こそファシズムからとおい。現代社会の一般のありかたとして、行きすぎた近代化・グローバリズムへの反省としていわれることはあり得ても、それが、いわゆるファシズムに結びつくものではないと思う。

むしろ現在、警戒すべきは、特に都市部における、集団的ヒステリーじみた狂騒、それが……反原発・反安保法制であっても……こういうものこそ、全体主義的な考えに近いように、私は感じている。いわく、国民主権なんだから、国民の声を聴け、国民に決めさせろ、これは、近代的な立憲主義、社会・政治の制度を踏み越えようとするものである。この意味でなら、内田樹が、ファシズムと親和性が高いという自己評価は、受け入れられるかもしれない。

それから、もうひとつ、気になったところを書いておく。現代の大学教育の問題についてである。白井聡の発言。

(白井)「私はある学校で初年次向けの演習科目を持ったことがありました。それで期末レポートを出させた。でも、提出してきた七、八人のレポートの半分以上は、読まずに即返しました。返した理由は、段落を改行しているのに、そこで一字、冒頭を空けていなかったからです。/おそらく彼らは、「改行したらそこで一文字空けなければいけない」ということを、一〇年近くずっと学校で教えられて続けてきたはずなんです。一〇年近く言われてきたにもかかわらず、それができない。これは僕は本当に恐るべきことだと思うんです。」(p.231)

これは、居酒屋談義ならいってもいいことかもしれない。大学の教師が、自分の教えている学生がいかに馬鹿であるかを自慢するのは、私も、よく経験することではある……

だが、これを本に書いていいかどうかは、また別問題だし、さらに、問題は、初等・中等教育のレベルからあることである。ただ、最近の大学生はダメである、といっただけではすまない。

では、大学でどうすべきか、各大学でそれぞれの事情に応じてではあろうが、各種の取り組みが始まっている段階である。まず、そちらの取り組みとして、今の大学として何をなすべきかを考えるべきではないのか。それが、すくなくとも、現職の専任の大学教員たるもののつとめだろう。

具体的に、大学教育においてどのようにとりくんでいくべきか提言できないようなら、こんなことをいうべきではないと思う。

以上、内田樹、白井聡から、気になる発言をとりあげてみた。たしかに、気楽な対談集としてよめば、特に問題ないのかもしれない。だが、内田樹など、近年では、その影響力が増している。そのなかで、みずから、どのような立場で、何をいっているのか、もうすこし、反省する時間をもつべきではないのではないか。