長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「なぜ多数決なのか?」 ― 2016-08-06
2016-08-06 當山日出夫
人間がものごとを論ずるとき、二つのタイプがあると私は考える。
第一には、直感的な洞察力で、ずばりとものごとの本質を見抜くようなタイプ。
第二には、順番に理詰めで、ものごとを追求していくタイプ。
この二つのタイプに分けて考えてみるならば、憲法について語ったものとしては、さきにとりあげた井上達夫の『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』などは、第一の、洞察力それも非常にラディカルな、に分類できるかもしれない。
でなければ、憲法九条を廃止する、というようなことはなかなか考えつくものではないと、私は感じてしまう。
やまもも書斎記 2016年7月20日
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/20/8134764
他方、もう一つのタイプ、理詰めで考え抜いていくタイプは、憲法について語っている人として選ぶなら……私が読むような本であるから、一般的な書物を書くような人になってしまうのだが……長谷部恭男かもしれない。
やまもも書斎記 2016年7月13日
長谷部恭男『憲法とは何か』「立憲主義の成立」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/13/8130465
長谷部恭男の書いた新書本『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)を、改めて読んでみたいと思う。この本については、すこし前にちょっと言及した。
やまもも書斎記 2016年7月21日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「ホッブズを読むルソー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/21/8135281
ここでは、ルソーと憲法の問題についてみた。あらためて、この本を最初から読んでいってみることにする。
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
この本、いまから10年以上前に書かれた本である。まだ、昨今の安保法制議論のはじまる前に書かれている。この人の書いたものを読んでみたいと思ったのは、もちろん、安保法制の審議において、法案は憲法違反であると論じた一人でもあるからである。
さて、本題である。
が、その前に、「あとがき」を見ておきたい。これが面白い。本を手にとってまず後書きから読むような人を想定して(私のような人間か)、次のようにある。(p.203)
「第一に、「憲法と平和」とくれば、憲法に反する自衛隊の保持を断固糾弾し、その一日も早い完全廃棄と理想の平和国家建設を目指すべきだという剛毅にして高邁なるお考えの方もおられようが、そういう方には本書は全く向いていない。」
「第二に、「憲法と平和」とくれば、充分な自衛力の保持や対米協力の促進にとって邪魔になる憲法九条はさっさと「改正」して、一日もはやくアメリカやイギリスのように世界各地で大立ち回りを演じることのできる「普通の国」になるべきだとお考えの、自分自身が立ち回るかはともかく精神的にはたいへん勇猛果敢な方もおられようが、そういう方にも本書は全く向いていない。」
このような「あとがき」を読んでしまうと、やはり読まざるをえないでないないか、と私などはついつい思ってしまう。で、ともかく読んでみることにする。
そして、ようやく本題にはいる。
この本の「第1章」は、「なぜ多数決なのか?」から始まる。
多数決でものごとを決めるのは、民主的なルールと、私などは、思い込んでいる方かもしれないのだが、改めて問われると、多数決でものごとを決めることの意味は何であるのか、よく分かっていない。そもそも、あまり考えていないことに、気づく。多数決で決める=民主主義と思い込んでいるのである。もちろん、いわゆる「少数意見の尊重」ということを配慮するにしてもである。
著者は、ここで、多数決を採用する理由を四つあげている。その詳細は、はぶくことにするが、ともあれ、多数決でものごとを決めるという簡単なことをとってみても、政治哲学、社会思想史の背景があってのことだと、いろいろと考えさせられる。
このような指摘は重要だろう。
「さらに、問題がきわめて専門的なものであったり、人々が偏見にとらわれがちな問題であったりすれば、人々の平均的な判断能力は低下し、そのため多数決が正しい結論を導く確率も、投票者の数の増大とともに低下することになる。少数者の人権にかかわる問題が、民主的な多数決ではなく、政治過程から独立した裁判所の判断に委ねられるべきだといわれるのも、こうした考慮からすれば、納得がいくことになろう。」(p.28)
そして、なぜ多数決なのか、という問いのたてかたは、なぜ民主主義なのか、という問いにつながっていく、とある。
なお、多数決をめぐっては、最近出た次の本があることは承知している。
坂井豊貴.『多数決を疑う-社会的選択理論とは何か-』(岩波新書).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1504/sin_k824.html
追記 2016-08-07
このつづきは、
2016年8月7日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「なぜ民主主義なのか?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/07/8147343
人間がものごとを論ずるとき、二つのタイプがあると私は考える。
第一には、直感的な洞察力で、ずばりとものごとの本質を見抜くようなタイプ。
第二には、順番に理詰めで、ものごとを追求していくタイプ。
この二つのタイプに分けて考えてみるならば、憲法について語ったものとしては、さきにとりあげた井上達夫の『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』などは、第一の、洞察力それも非常にラディカルな、に分類できるかもしれない。
でなければ、憲法九条を廃止する、というようなことはなかなか考えつくものではないと、私は感じてしまう。
やまもも書斎記 2016年7月20日
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/20/8134764
他方、もう一つのタイプ、理詰めで考え抜いていくタイプは、憲法について語っている人として選ぶなら……私が読むような本であるから、一般的な書物を書くような人になってしまうのだが……長谷部恭男かもしれない。
やまもも書斎記 2016年7月13日
長谷部恭男『憲法とは何か』「立憲主義の成立」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/13/8130465
長谷部恭男の書いた新書本『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)を、改めて読んでみたいと思う。この本については、すこし前にちょっと言及した。
やまもも書斎記 2016年7月21日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「ホッブズを読むルソー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/21/8135281
ここでは、ルソーと憲法の問題についてみた。あらためて、この本を最初から読んでいってみることにする。
長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/
この本、いまから10年以上前に書かれた本である。まだ、昨今の安保法制議論のはじまる前に書かれている。この人の書いたものを読んでみたいと思ったのは、もちろん、安保法制の審議において、法案は憲法違反であると論じた一人でもあるからである。
さて、本題である。
が、その前に、「あとがき」を見ておきたい。これが面白い。本を手にとってまず後書きから読むような人を想定して(私のような人間か)、次のようにある。(p.203)
「第一に、「憲法と平和」とくれば、憲法に反する自衛隊の保持を断固糾弾し、その一日も早い完全廃棄と理想の平和国家建設を目指すべきだという剛毅にして高邁なるお考えの方もおられようが、そういう方には本書は全く向いていない。」
「第二に、「憲法と平和」とくれば、充分な自衛力の保持や対米協力の促進にとって邪魔になる憲法九条はさっさと「改正」して、一日もはやくアメリカやイギリスのように世界各地で大立ち回りを演じることのできる「普通の国」になるべきだとお考えの、自分自身が立ち回るかはともかく精神的にはたいへん勇猛果敢な方もおられようが、そういう方にも本書は全く向いていない。」
このような「あとがき」を読んでしまうと、やはり読まざるをえないでないないか、と私などはついつい思ってしまう。で、ともかく読んでみることにする。
そして、ようやく本題にはいる。
この本の「第1章」は、「なぜ多数決なのか?」から始まる。
多数決でものごとを決めるのは、民主的なルールと、私などは、思い込んでいる方かもしれないのだが、改めて問われると、多数決でものごとを決めることの意味は何であるのか、よく分かっていない。そもそも、あまり考えていないことに、気づく。多数決で決める=民主主義と思い込んでいるのである。もちろん、いわゆる「少数意見の尊重」ということを配慮するにしてもである。
著者は、ここで、多数決を採用する理由を四つあげている。その詳細は、はぶくことにするが、ともあれ、多数決でものごとを決めるという簡単なことをとってみても、政治哲学、社会思想史の背景があってのことだと、いろいろと考えさせられる。
このような指摘は重要だろう。
「さらに、問題がきわめて専門的なものであったり、人々が偏見にとらわれがちな問題であったりすれば、人々の平均的な判断能力は低下し、そのため多数決が正しい結論を導く確率も、投票者の数の増大とともに低下することになる。少数者の人権にかかわる問題が、民主的な多数決ではなく、政治過程から独立した裁判所の判断に委ねられるべきだといわれるのも、こうした考慮からすれば、納得がいくことになろう。」(p.28)
そして、なぜ多数決なのか、という問いのたてかたは、なぜ民主主義なのか、という問いにつながっていく、とある。
なお、多数決をめぐっては、最近出た次の本があることは承知している。
坂井豊貴.『多数決を疑う-社会的選択理論とは何か-』(岩波新書).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1504/sin_k824.html
追記 2016-08-07
このつづきは、
2016年8月7日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「なぜ民主主義なのか?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/07/8147343
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