長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「比較不能な価値の共存」2016-08-09

2016-08-09 當山日出夫

つづきである。第3章を読んでみる。

長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/

やまもも書斎記 2016年8月7日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』「なぜ民主主義なのか?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/07/8147343

第3章は、このようにはじまる、「立憲主義は西欧起源の思想である」。

あたり前のことかもしれないが、これは重要だろう。たとえば、「憲法」といえば、右翼的な立場からよく出てくる「憲法十七条」(聖徳太子)、このような憲法と、近代の立憲主義は別物であることの確認がまず必要と思う。同じ「憲法」の語をもちいてはいるが。

(グロティウスやホッブズなどの社会契約論者は)「すべての人が生まれながらにして自己保存への権利、つまり自然権を持つという考え方をベースに、異なる価値観の共存しうる社会の枠組みを構築しようとした。立憲主義のはじまりである。」(p.50)

「人々の抱く価値観が根底的なレベルで対立しており、しかも、各人が自分の奉ずる価値観を心底大切だと考えているような状況で、人々が平和に社会生活を送ることのできるよな枠組みを作ろうとすれば、まず、人々の抱く価値観が社会生活の枠組みを設定する政治の舞台に入り込まないようにする必要がある。公と私の区分、より狭くいえば、政治と宗教との区分が、こうして要請される。」(p.59)

「自然権論も、それにもとづく立憲主義も、何か特別の宗教や哲学によって基礎づけられているわけではないことには注意が必要である。立憲主義の底を掘っていくと、たとえば、人間だけが平等な権利を生来与えられたものとして万物の創造主によって創造された、というテーゼに行き当たるわけではない。そうした特定のテーゼに寄り掛かったのでは、そのテーゼを信奉する人しか、立憲主義を支持することはできない。それでは、根底的に異なる価値観を抱く人々の間に、公正な社会生活の枠組みを打ち立てることはできない。」(pp.60-61)

このように、近代社会にあって、様々な価値観が共存することを前提として、それをなりたたしめるものとしての立憲主義、このことの確認は重要になる。これを基本にしたうえで、少数派の権利が守られなければならない。そのために、硬性の憲法典が必要になるのだという。

「現代の立憲主義諸国で広く採用されている制度、つまり、民主的な手続きを通じてさえ侵すことのできない権利を硬性の憲法典で規定し、それを保障する任務を、民主政治のプロセスから独立した地位を保つ裁判所に委ねるという制度(違憲審査制)は、民主的な手続きに過重な負担をかけて社会生活の枠組み自体を壊してしまわないようにするための工夫でもある。」(p.62)

このような立場を確認するところからは、これから議論されるかもしれない、憲法改正案、特にその九十六条改正については、きわめて慎重でなければならないことになる。繰り返し確認しておくならば、立憲主義とは、民主的な手続きに制限をかけるものである。立憲主義……憲法を尊重せよ……ということは、必ずしも、多数決で主権者=国民の声を聞け、ということには、つながるものではないのである。いや、逆に、そのような国民の声にブレーキをかけるのが立憲主義、ということになる。

追記 2016-08-10
このつづきは、
長谷部康夫『憲法と平和を問いなおす』「公私の区分と人権」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/10/8149048

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