長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』穏和な平和主義2016-08-31

2016-08-31 當山日出夫

長谷部恭男.『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書).筑摩書房.2004
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061652/

やまもも書斎記 2016年8月29日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』平和主義と立憲主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/29/8165183

そろそろ、憲法九条の解釈の問題にとりかかる。

ここで著者は「穏和な平和主義」というのを持ち出してくる。

「第一に、各国が自衛のための何らかの実力組織を保持することを完全には否定しない選択肢がある。」(p.160)

これは、冷戦後には現実味のある選択肢であるとしたうえで、

「穏和な平和主義が答えるべき第一の疑問は、はたして憲法第九条から軍備の保持および実力の公使に関する明確な限界を引き出すことができるか否かであろう。」(p.161)

「集団的自衛権は、自国の安全と他国の安全とを鎖でつなぐ議論であり、国家としての自主独立の行動を保障するはずはない。自国の安全が脅かされているとさしたる根拠もないのに言い張る外国の後を犬のようについて行って、とんでもない事態に巻き込まれないように、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、合理的自己拘束として、充分に有りうる選択肢である。」(p.162)

そして、

「いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもないからである。」(p.163)

ここでいう「譲歩」「踏みとどまる適切な地点」というあたりの考え方が、今般の安保法制で、違憲論が憲法学者から出されたおおきな理由の一つということになるのであろう。この本を書いた長谷部恭男も、まさにその一人である。そして、それは、「伝統」であるといっている。

「ときに、憲法第九条から導かれるとされるさまざまな制約が、「不自然」で「神学的」であるとか、「常識」では理解しにくいなどといわれることがあるが、こうした批判は全く的がはずれている。合理的な自己拘束という観点からすれば、ともかくどこかに線が引かれていることが重要なのであり、この問題に関する議論の「伝統」をよく承知しない人たちから見て、その「伝統」の意味がよくわからないかどうかは関係がない。」(p.163)

集団的自衛権の否定が、憲法に違反するのが「伝統」であるから、それをみとめろ、端的にいえばこうなるか……国会審議のなかで出てきたことばを思い出せば「法的安定性」ということばが思い浮かぶ。憲法に集団的自衛権があるとも無いとも明記されていない以上、その文言の解釈の「伝統」というのは、尊重されるべきもの、ということになるのであろう。

これを、それなりの重みのある発想ととらえるか、あるいは、現実にそぐわない旧套墨守の考えとみるかは、これは、人によって意見のわかれるところかもしれない。しかし、これまで、緻密に議論を積み重ねてきた最後のところででてくるものとして「伝統」というのは、これはどうしたものかという気がしなくはない。

ここは、いずれの方向(集団的自衛権をみとめるにせよ、みとめないにせよ)であっても、憲法に明記するというのも、あっていいように思われる。これはこれで、筋のとおった改憲論であると思うのだが、どうであろうか。これに対しては、いかなる点においても、現行憲法の改正はみとめないという頑迷な護憲論者を相手にしなければならなくなるが。

なお、ここで「伝統」と著者が言っていることは、「国境」についてもあてはまるとする。(p.164) その必然性はないかもしれないが、ともかくそこに国境が引かれていること、そのこと自体に意味があるとする。この「国境」のことについては、

「国境はなぜあるのか」
長谷部恭男.『憲法とは何か』(岩波新書).岩波書店.2006
https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0604/sin_k286.html

に興味深い論考がある。国境というものを考えるとき、国民国家とか、民族の共同体とかというような概念をまったくつかわずに説明してある。法律の専門家はこのように考えるのか、ということが、その意味で理解される文章である。

追記 2016-09-07
このつづきは、
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』絶対平和主義
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/07/8172624