山内昌之『歴史の想像力』2016-10-30

2016-10-30 當山日出夫

山内昌之.『歴史の想像力』(岩波現代文庫).岩波書店.2001 (原著 『二十世紀のプリズム』.角川書店.1999 再編集)
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/7/6030480.html

著者は、イスラームが専門の歴史研究者であるが、それと同時に、すぐれた人文学者であると思う。さりげなく書いてあるが、次のような箇所。

「歴史と文学には大きな共通点がある。それは、自然への愛や人間の可能性に対する信頼である。そして、歴史と文学は、〈叙述〉という表現手段が重視される点でも似通っている。」(p.214)

〈文学〉と〈歴史〉があまりにも離れすぎてしまった時代においては、貴重なことばといえる。一般的には、文学部に属する分野なのであるが、現在では、〈歴史〉を勉強する人間は〈文学〉を分からなくてもいいかのごとくである。また、〈文学〉の方でも、そもそも〈歴史〉とは何かと問いかけるというようなことは、なくなっているように思える。

たとえば、次のような指摘。

「もし辻邦生が歴史学者であったなら、どのような研究を仕上げたことであろうか。仮定とはいえ、どうしても想像してみたくなる問いである。その場合でも確実なのは、氏が歴史学者という狭いギルド的枠に留まらずに、大きなスケールの仕事を仕上げていたということだろう。」(p.51)

として、『背教者ユリアヌス』『西行花伝』『安土往還記』『嵯峨野明月記』『天草の雅歌』、などの作品名があがっている。これらの作品、私も、高校生のころに読んだものである。『西行花伝』は晩年の大作、これを読んだのは、出版されたときだったろうか。久しぶりに辻邦生の作品を読むという感じで読んだのを覚えている。ただ、私は、和歌という文学には向いていないのか、いまひとつ、理解が及ばなかったという気がしている。『背教者ユリアヌス』、出たときに読んだ。まだ高校生のころは「背教者」ということばの意味もろくに知らずに読んでいたのだが、今、読み返すとどう感じるだろうか。

いろいろ知的刺激に満ちた本であるが、次のような箇所は重要だろうと思う。付箋をつけた箇所。

「「イスラーム原理主義」という隠喩こそ、異文化理解の妨げになる「古い理論的鼻めがね」なのかもしれない。」(p.287)

(EUへの難民問題にふれて)「もとより、こうした試練から日本だけがひとり自由でいられるはずもない。実際、日本の歴史と社会にひそむ「単一民族国家の神話」は、二一世紀に向けて大きく揺らいでいる。日本人にしても、多民族の共存と調和の時代に新たに貢献することが迫られるであろう。」(p.265)

「小ぶりの歴史書再読のすすめ」の章。

「今の若い世代に勧めるとすれば、岩波文庫やちくま学芸文庫の百ページから百五十ページあたりの小ぶりの文庫本が適当だと思う。」

としてあげてあるのが、

郭沫若『歴史小品』
『ランケ自伝』
ハーバート・ノーマン『クリオの顔』
新井白石『読史余論』

これからの若い人にとっての読書案内としてもすぐれていると同時に、もう私のような年齢になって、昔読んだ本など再読したくなっている人間にとっても、有益である。

ただ、今、ちょっと調べてみたところ、みな絶版のようである。しかし、古本で手にいれることはむずかしくない。だが、これらの本がいまでは普通に売っている本ではなくなっていること、そのことは、現代の歴史学のみならず、人文学の状況……その危機的状況……をしめすものであると思う。『ランケ自伝』など、学生のころは、普通に買って読んだ本だと覚えているのだが。

そして、まさに、次の箇所はなるほどそのとおりと同意するところである。

「静かに机に向かって書物を繙く以上の喜びがこの世にあろうか。」(p.109)

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