『真田丸』あれこれ「軍議」2016-11-01

2016-11-01 當山日出夫

『真田丸』2016年10月30日、第43回「軍議」
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story43.html#mainContents

このドラマ、結果が分かっていることを描くのだから難しいとは思う。負けるべくして負けた戦いとして描くのか、あるいは、ひょっとして勝てたかもしれない戦いなのに、あらぬ要因があったせいで、負けることになったのか。どうやら、この脚本の方針としては、後者の立場をとっているようである。

信繁が陣頭にたって、総司令官をつとめていたら、ひょっとしたら、大坂の陣は、豊臣の勝利になったかもしれない……そのような、歴史のもしも、をうまく描いていたと思う。

ただ、やはり気になるのは、牢人たちの目的・動機である。何のために戦っているのか、バラバラである。そして、集まった牢人たちを信頼していない、豊臣の人びとも気になる。まあ、だから、負けるべくして負けたということになるのだろうが。

この観点からは、冒頭ちかくの片桐が徳川の配下になるシーンが印象的である。徳川への忠誠心でまとまっている方と、かたや、配下の牢人を信用していない豊臣、これの対比も今後の見どころになるのだろう。

そして、信繁も、自分がなぜ戦うことになるのか、分からないと言っていた。これは、たんなるその場の韜晦か、はてまた、本当に自分でも、まだ、よく納得していないのか。このあたり、次回以降、たぶん、茶々との関係で描いていくことになるのかと思って見た。

次回は、いよいよ「真田丸」になるらしい。関ヶ原を、異常なまでにあっけなく終わらせた分、大阪の陣における真田の戦いぶりを、存分に描くことになるのかと期待している。

ちくま日本文学全集『柳田國男』2016-11-02

2016-11-02 當山日出夫

このところ、古本を買っている。最近、買ったのは、

ちくま日本文学全集『柳田國男』.筑摩書房.1992

解説を書いているのは、南伸坊。文庫版の全集、という体裁のシリーズである。調べてみると、このシリーズは、体裁をかえて、今でも新本で売っているようだ。今売っているのは、2008年の刊行らしい。タイトルも、「ちくま日本文学」と変わっている。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425157/

http://www.chikumashobo.co.jp/special/nihonbungaku/lineup/

この『柳田國男』であるが、収録作品を見ると、まず、
「浜の月夜」
「清光館哀史」
がのっている。それから、「遠野物語」「木綿以前のこと」など、柳田の代表的な作品が、収録、あるいは、抄録されている。おおむね「文学」の観点からみた柳田の文章がおさめられている。

『定本柳田国男集』も持っているのだが、このごろでは、このような手軽な編集の本が好みになってきた。柳田国男を論じるために読むというよりも、自分の楽しみの時間のために読む、そんな読書の時間をつかうには、ちょうどいい。文庫本サイズなので、ちいさいし軽い。とにかく、気楽に読める雰囲気の本づくりになっているのがいい。それから、このシリーズは、文字が大きい。これも、老眼になった身としては、とてもありがたい。

ところで、私は、これまで、「遠野物語」を通読したということがない。時に、ページを開くことはあっても、全部を読んではいない。理由は、こわいからである。「遠野物語」の文章を読むと、ぞっとするような恐怖を感じる。とても、全部をとおして読む気になれない。で、今にいたっている。

それほど、日本民俗学の文章というのは、読む人間にとって、迫力のあるものなのである。

これに近いものとして……『今昔物語集』の巻二十七があるのだが、この巻も、読んではいるのだが、夜ひとりで読んだりするのは、とてもこわい。

そのせいもあって、実は、『共同幻想論』(吉本隆明)を、あまりきちんと読んだことがないのである。『古事記』の引用はいいのだが、『遠野物語』の引用箇所を読むのに恐怖を感じることがあって、途中でやめたり、とばしたりしている。

年をとってきて、文章に対する感性もかわってきたと感じる。そろそろ、純粋な楽しみの読書の時間をつかうように、そのように生きていきたいものだと思っている。この意味で、手軽な文庫本はありがたい。

半藤一利「歴史家としての心得」2016-11-03

2016-11-03 當山日出夫

半藤一利.『漱石先生ぞな、もし』(文春文庫).文藝春秋.1996 (原著 文藝春秋.1992)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483043

この本で付箋をつけた箇所をつづける。

水戸光圀にふれたところで、以下のようにある。ちょっと長くなるが引用する。

「わたくしは近頃若いひとたちと話をしていて、かれらの歴史をみる眼のなかに、こうした”あたたかさ”や”人間らしさ”が失われていることを感じるのがしばしばである。奈良の古びて美しく残る風景や、奈良の大仏をみて若ものは「でもこの時代には天皇家と、その周囲の権力者だけが栄華な生活を送っていて、奴隷である農民を使役して人口二十万の奈良の都を作ったんですってね」と突然わたくしをおどろかすようなことをいう。/彼または彼女の頭では、二十万もの、当時の大都会に住んでいたもののほとんどが、苦役にあえぐ農民であったら、はたしていまに残る古びて美しい町を形成できたか、想像できないらしいのである。大仏をめぐる仏教文化の影響に考察は及ばぬのである。」(pp.277-278)

そして、このようにも語っている。

「歴史解釈の曖昧についていっているのではない。かつての日、わたくしたちが詰めこまれた皇国史観にかわって、戦後の民主主義教育で登場し、教えられている歴史の見方というものに、どれほどの違いがあるのか、についてやや疑義を呈したいのである。天皇制の代りに人民や民衆が振り回されることになっても、振り回される民衆とやらはそれまでの天皇制と同じで、〈歴史より歴史学〉を信奉する歴史家が、つくりあげた観念であることに違いはない。」(p.279) 〈 〉内は、原文傍点。

著者(半藤一利)は、昭和5年の生まれ。終戦のときは、中学生であった。このことについては、次の本にくわしい。すでにふれた本である。

半藤一利.『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫).文藝春秋.2008 (原著 プレジデント社.2003)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167483173

やまもも書斎記 2016年10月26日
半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/26/8236181

このような時代に生きた人間ならでは、歴史観というべきであろう。絶対的な皇国史観を信じることもないし、かといって、逆に、絶対的な民主主義信奉者というわけにもいかない。どかかさめた眼で歴史をみている。

漱石について思いつくままに書いている気楽なエッセイであるが、このような箇所は見逃すことはできない。「歴史」と「歴史学」について、考える貴重なヒントになる箇所であると思って読んだ。実際にどのようであったの「歴史」とそれを解釈する「歴史学」、といえば、あまりに素朴な実在論であろうか。しかし、「歴史」にむかうとき、謙虚な実在論の立場を失ってはならないと思うのである。

細谷雄一『歴史認識とは何か』2016-11-04

2016-10-04 當山日出夫

細谷雄一.『戦後史の解放1 歴史認識とは何か-日露戦争からアジア太平洋戦争まで-』(新潮選書).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/603774/

この著者(細谷雄一)の本については、以前にふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月14日
細谷雄一『安保論争』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/14/8131019

本としては、この新潮選書の方が一年はやく出ている。そして、一読した印象としては、『安保論争』で展開されている、筆者の、近現代史についての考え方を、ひろく述べているものになっていると感じる。

興味ぶかかったのは、冒頭。戦後50年の村山談話についてのこと。筆者は、どちらかといえば、村山談話には批判的なようである。その批判的というのは、その内容についてではない。そうではなく、そのような談話を出して、歴史観を国家の正面に掲げてしまったことの功罪についてである。

「歴史認識がそれぞれの国のアイデンティティと深く結びついている以上、そもそも国境を越えた歴史認識の共有がいかに難しいのかという意識が、おそらく村山首相には欠けていたのだろう。国家間の問題においても、十分は誠意を示せば決着がつくと感じていたのかもしれない。ところが歴史認識問題という「パンドラの箱」を開けた結果、むしろ中国でも韓国でも歴史認識問題を封印して、凍結しておくことがもはや不可能になってしまったのだ。」(p.29)

また、次のような箇所。

「戦争に勝利を収めた連合国は、戦闘の勝利を手に入れただけではなく、歴史の正義をも手に入れることができた。」(p.31)

そして、次のような指摘も重要だろう。

「戦争をどのように位置づけるかについて、第一次世界大戦後のドイツ国民は、イデオロギー的に分裂していた。そのような意味で、第一次世界大戦後のドイツと、第二次世界大戦後の日本には多くの共通点がある。」(p.32)

それから、次の箇所。

「日本の歴史教育におけるもう一つの問題点は、世界史の中に日本が出てこないということである。世界が出てこない日本史も問題だが、日本が出てこない世界史にも問題がある。」(p.62)

以上の引用は「序章」の部分からである。つづいて具体的な近代史の記述になる。そのなかで、たとえば、満州事変と国際連盟との関係などについて、世界史の視点から日本史の事件をみるべきことが、記される。

余計なことながら、ちょっと気になったことがある。この本の先行研究、参考文献のなかに、松本健一の名前が出てこないことである。近年の歴史学において、日本近代史を、世界史のなかで、あるいは、東アジア近代史のなかで論じようとした仕事を残した人であると、私は認識しているのだが、なぜか名前が出てこない。

歴史学、日本近代史専攻というわけではないので、学界事情にはうといのだが、どこかで、基本的に在野の人であった松本健一の仕事は評価しないという雰囲気があるのかな……などと思ってしまうのだが、どうなのであろうか。

ともあれ、この本『歴史認識とは何か』『安保論争』は、歴史叙述の着眼点としてきわだつものがあるし、そして、その叙述もうまい。今後の活躍に期待したい俊英というべきであろう。

川本三郎『大正幻影』2016-11-05

2016-11-05 當山日出夫

川本三郎.『大正幻影』(ちくま文庫).筑摩書房.1997 (原著 新潮社.1990)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480032669/

いまでは、この版は絶版のようである。岩波現代文庫から、新しいのが出ている。
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6021330/top.html

サントリー学芸賞受賞作である。なぜか今まで手にとることがなかったが、古本で買って読んでみた次第。内容については、すでにいろんな人が書いていることと思うので、例によって、自分なりに感じたことをいささか。

近代日本……戦前まで……これを考えるとき、たぶん、三期にわけて考えることができる。

第一は、文明開化の時代。いわば『坂の上の雲』の時代である。とんで、第三は、昭和戦前のいわゆる軍国主義の時代。そして、その間に位置するのが、本書で描かれた、「大正」の時代ということになるのだろう。

もはや「明治」の偉大さはない。しかし、一方で、まだ昭和戦前のような暗い世相(と、今日では一般にとらえられている)時代でもない。いってみれば、近代の日本において、十分に「近代」を謳歌できた時代といえるのかもしれない。

著者は大正の文学者・文学作品を「幻影」をキーワードにして見ている。佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、永井荷風……このようなことは、本書についてふれた文章ですでに言及されていることである。そして、私が重要だとおもったのは、この「幻影」が二重になっていることである。

大正期の文学者たちは、東京の川(隅田川)に、あるいは、都市に、映画に、ある種の「幻影」を見いだしている。それを、著者(川本三郎)は、現代の東京をあるきながら、現代の風景の向こうに、かつて大正の文学者たちが見たであろう「幻影」を、さらに想像の世界の「幻影」として、感じ取っている。

ところで、このようなことを書いて思うことは……最近のはやりでいうならば、デジタル・ミュージアム、バーチャル・ミュージアム、などが思い浮かぶ。情報工学の人がこの本を読んで、東京の下町界隈を歩いて、そこに、スマートフォンや、タブレットをかざして見れば、大正時代の写真とか地図がある、そんなシステムを考えるだろう……CH研究会などに出ている人間としては、ついついこんなことを考えてしまう。

だが、それに対して私の価値観では、基本的に「否」である。著者(川本三郎)は、現代の東京を歩いて、そこに大正の「幻影」を見ることで、遊んでいる。これは、「幻影」であることを意識してのことである。確かに、ここで、大正時代の地図とかがタブレットなどで表示されると「便利」かもしれない。しかし、それでは、「幻影」に遊ぶ妙味が薄れてしまうような気がしてならない。

とはいえ、これも人によって違うかもしれないとも思う。これからの時代、そのようなシステムがあれば、人はどんどんつかうだろう。今の東京の町を歩いて、そこが、戦前・大正・明治のころはどんなであったか、リアルタイムで、地図を重ね合わせて見ることができれば、どんなにか「便利」ではあるだろう。また、当時の写真や絵画などを見ることができれば、楽しいに違いない。

このときに思うことは、やはり文学がわかる人がシステムを作らなければならないだろう、少なくとも、文学や芸術の領域の専門家との、(本来の意味での)協同がなされて、はじめて意味のあるものなるにちがいない。

技術的には、ほとんど問題ない時代になりつつあると認識している。あとは、「幻影」であることを意識できるシステムを作れるかどうか、それを、使う人間が「幻影」に遊ぶことができるかどうか、ではないかと思うのである。

いや、そのようなことは、川本三郎のこの本を読んで感じればいいことであって、しいてそんなシステムをもとめることもない、という考え方もありえよう。

バーチャル・ミュージアムと人間の想像力の問題、このところの問題点を考えるヒントが、この本にはあるように思う。あえて言うならば安易にデジタル文学地図というようなことを考える前に、まずは、この本をじっくりと読んで、文学における「幻影」の意味を、よく理解すべきであろう。

塩野七生と司馬遼太郎2016-11-06

2016-11-06 當山日出夫

たぶん、塩野七生と司馬遼太郎……一般には高い評価で読まれるけれども、専門の歴史学研究者は、あえて黙殺する、という感じではないかと思って見ている。実は、私は、司馬遼太郎の主な作品は、高校生のころから読んできているが、塩野七生は読んでいない。タイミングを逸したということもあるのだが、とにかく、片仮名名前が苦手なのである。人名・地名で、片仮名表記の語が出てくると、それだけで、頭にすんなりとはいってこない。これが、日本のものを読んで、漢字表記の名前が出てくるのと、おおきな違いである。

だから、大学での専攻としても、国語学、国文学というような分野を選んだということになるのかもしれない、と思ったりするのだが。

ところで、この塩野七生と司馬遼太郎に、歴史家の視点から言及してある本。すでにふれた、

山内昌之.『歴史家の羅針盤』.みすず書房.2011
http://www.msz.co.jp/book/detail/07568.html

「塩野氏はやや控えめに職業的歴史家にも皮肉の矢を放っている。中世とはその名が揶揄めいて聞こえるほど長く千年間も続いた。「この時代の研究が専門の学者たちが気の毒に思えるほどに混迷を極めた時代」だというのだ。まるで、「専門の学者」たちは何故もっと立体的に面白く歴史を描けないの、と言われているみたいである。」(p.98)

「司馬さんは、歴史の条件を無視して軍事的な教養や実現知識をもつことを忌避する傾向を危険と考えた。「現実をきちっと認識しない平和論は、かえっておそろしいですね」という司馬さんの言葉は、二十一世紀の容易ならざる歴史のリアリティを予感する私などには黙示的な預言のように響くのである。」(p.158)

これらのことばは、歴史家として、自身の歴史研究、歴史叙述に自信があるからこそ、その矜恃のうらづけがあるからこそ、いえるのだと思う。

司馬遼太郎や塩野七生をどう読むか、これは、歴史学の分野にとって、難しい問題なのかもしれないと思う。

ともあれ、ここは素直に、歴史家・山内昌之が書いたものとして、うけとっておけばよいのであろう。私も、できれば、率直な気持ちで本を読みたいものだと思う。そして、そこを出発点にして、歴史と歴史叙述そして歴史小説について、考えをめぐらせてみたい。これから、こんなふうに本を読んでいけたらいいという希望のようなものとしてであるが。

ボブ・ラングレー『オータム・タイガー』2016-11-07

2016-11-07 當山日出夫

ボブ・ラングレー/東江一紀(訳).『オータム・タイガー』(創元推理文庫).東京創元社.2016
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488237059

このての冒険小説を読まなくなってひさしい。読後感としては、ひさしぶりに、ああ読んだな、という印象であった。出たときに買っておいたのだが、ようやく本棚から取り出してきて読んだ。

この本の原著が書かれたのは、1981年。まだ、東西冷戦のまっただ中である。その時代を背景としてのスパイ小説の枠組みをかりながら、第二次大戦当時を舞台とした冒険小説になっている。

著者(ボブ・ラングレー)は、『北壁の死闘』で名前を知ったと覚えている。これが出たとき(創元推理文庫)、これはいいと思って読んだ。その後、いくつか翻訳が出て読んできたのだが、なぜか、この本『オータム・タイガー』は、読み落としていたようだ。1990年に初版が出て、今回(2016年)に新版となって刊行である。

どうやらこうなった背景には、訳者(東江一紀)が没したという事情があるらしい。このあたりのことは、巻末の「「解題」に代えて――東江一紀さんの思い出」(田口俊樹)に記されている。

東西冷戦も、第二次大戦も、ともの過去の歴史になってしまった。その歴史をどう語るかは別にしておいても、これらの時代を背景にして、幾多の冒険小説、スパイ小説が書かれてきたということは、確かなことである。そして、このような良質の冒険小説、スパイ小説というのが、なぜか日本では、育ってこなかったジャンルといえるのかもしれない。(ただ、私が、知らないだけなのかもしれない。それでも、学生の頃から、創元推理文庫、ハヤカワ・ミステリの類は、書店にいくたびごとに、のぞいていたものである。)

で、本作……正統派の冒険小説であると同時に、一級のスパイ小説にもしあがっている。そして、ある種の叙述トリックがしかけてある。あ、そうだったのか……となる結末。ただそれだけではなく、この小説のラストが非常に印象深い。冒険活劇を読んだ後だけに、しみじみと感じるものがある。

評価としては、『北壁の死闘』よりも、こちらの作品の方をおしておきたい気がする。それぐらいのおすすめの作品である。

『真田丸』あれこれ「築城」2016-11-08

2016-11-08 當山日出夫

『真田丸』2016年10月6日、第44回「築城」
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story44.html#mainContents

終盤のここにきて、この演出はないだろう……と思わせる回であったのだが、面白かった。

最後に信繁(幸村)が敗れることは分かっているのだが、それを分かっていながら、いかにその姿をかっこよく描くか、という方向にむかっているようだ。

たとえば、第二次大戦(太平洋戦争)、最終的に日本が負けると分かっているにもかかわらず、真珠湾攻撃に空母から飛び立つ飛行機をかっこよく描いてしまうようなものか、と思ってみたりもする。真田丸が、まるで、空母赤城のように見えたものである。その後のミッドウェーを知ってのこととして。(これは、個人的な勝手な思い込みにすぎないとは思っているのだが。)この比喩の延長がゆるされるなら、次の見せ場は、徳川との和議が成り立ち得たのか、というあたりになるのではないだろうか。

太平洋戦争でも、もしも、まだ日本が勝っているうちに、そして、ヨーロッパでのドイツ軍の劣勢(対ソ連戦)が見えたきたころに、アメリカと講和していれば、という歴史の「もしも」がなりたつ。少なくとも、フィクションの世界ではあり得る。

この意味で、真田丸を築いて敵(徳川)に一矢をむくいた後、しかるべく和議が成立していたなら、ということになるのかもしれない。たぶん、ここでも、豊臣の譜代の家臣と牢人との確執、そこで、発揮されるであろう信繁(幸村)の豊臣への忠誠心、このあたりが見どころになるのかなと思っている。

そして、結局、このドラマは、信繁(幸村)の豊臣への忠誠心をいかに描くか、ということを軸にしたもの、ということになるのだろう、というのが、今の予想である。

しかし、次週は、学会(訓点語学会)で東京である。懇親会も出るから、日曜日には見られない。録画しておいて、帰ってから見ることになる。

川本三郎『物語の向こうに時代が見える』2016-11-09

2016-11-09 當山日出夫

川本三郎.『物語の向こうに時代が見える』.春秋社.2016
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-44420-7/

川本三郎は、文芸評論家、映画評論家、とでもいえばいいのだろうか。私の今の生活では、映画は見ないことにしているので(ただ、今のシステムの映画館に行くのが億劫なだけなのだが)、映画関係の本は読まない。しかし、文芸評論、評伝の類は、読む。そのような人としての、川本三郎の本である。

あつかってあるのは、基本的に現代小説ばかり。はっきりいって知らない作家・作品が多い。それでも、この本を通読すると、文学の向こうに、日本の時代……戦中から戦後、高度経済成長の時代、バブルから、その後の地方の凋落……が見えてくる……まさに、この本のタイトルどおりである。

国語学・日本語学というような分野で仕事をし、教えてもいる人間としては、現代小説も、読んでおかねばならない。当たり前のことだが、いざ、実行するとなると、意外とハードルが高い。なぜだろう。

現代文学というものについて論じることは、おそらく現代日本語の研究にあまり役立つということもないように思えるし、いや、そのような方向に現代日本語研究の動向があるというべきなのであるが、また、現実に、大学の日本文学科というようなところで、現代日本文学に接する機会というのは、意外と少ない。(これが、近代にまで時間がひろがると、研究資料としてあつかう機会が多くなるのだが。)

現代日本文学について語るのは、「文壇」に通じた文芸評論家の仕事、そんな感じがしないでもない。いや、だからこそ、研究者の視点をもったうえで、現代日本文学に向かっていく必要があるにちがいない。

あつかってある作品は、どちらかといえば暗いイメージの作品が多い。特に、過疎化のすすんだ地方都市を舞台とした作品を、筆者(川本三郎)は多くとりあげている。北海道を舞台にした、桜木紫乃の作品に多く言及してある。それから、本書の最後に登場するのは、水村美苗、黒井千次。「老い」と「死」がテーマである。

川本三郎の本、その文芸評論の仕事からは、時代が見えてくる。そのような仕事の一つとして、本書は位置づけられることになるのだろう。現代の問題としては、「過疎」であり、「老い」「死」である。このようなテーマに、おのずと収斂していくこの本の評論は、まさに、現代という時代に生きる人間にとって、その生き方を考えることにつながる。

現代文学を論じていながら、その視線は、日本古来の古典の文学の流れをうけついでいる。いい本を読んだという読後感の本である。

『べっぴんさん』なぜ面白くないか2016-11-10

2016-11-10 當山日出夫

毎日の習慣のようにして、NHKの朝ドラ(連続テレビ小説)を見ている。いま放送しているのは、『べっぴんさん』。大阪の制作である。

はっきりいって、この作品は、つまらない。同時に再放送がはじまった『ごちそうさん』も、同じ大阪制作の作品であるが、どうしても、これと比べてしまう。

なぜか……私の見るところでは、四人の登場人物(女性)に、個性が感じられないのである。ヒロイン(すみれ)がお嬢様そだちという背景はいいとしよう。それにまじって、きわだった個性を見せているのは、明美。元使用人の娘で看護婦をしていたが失職して、すみれたちの店をてつだうことになるという設定。

しかし、のこりの二人(良子、君枝)に、個性というものが感じられないのである。見ていて、どっちがどっちの人物なのか混乱してくる。いや、混乱しても、物語の進行にそうさしさわりがあるように思えない。まあ、この二人は、女学校の同級生で、すみれと似たような境遇にあることは、時代的背景を考えれば、そうかなとは思う。だが、そこに、すみれをふくめて、相互にきわだつ四人の個性というものがあってもいいのではないか。

それに比べて、『ごちそうさん』はどうか。今週から舞台が大阪の西門の家にうつった。そこに登場するのは、和枝、希子、静……といった、一癖も二癖もあるような女性たち。この女性たちにかこまれて、ヒロイン(め以子)が、苦戦しながらも家庭を築いていく姿が描かれる。

『べっぴんさん』で、せっかく「四つ葉のクローバー」をメインテーマにしているのであるならば、個性的な四人をそろえるべきだったのだ。似たような境遇にある女学校の仲間三人という設定が、無理があったというべきかもしれない。

ところで、女学校の三人といえば、思い出すのが『おひさま』。ヒロイン(陽子)、育子、真知子、それぞれに個性があった。そして、その三人の友情。女性(女学校の同級生)が仲間で仕事を始めるからといって、それぞれの個性が描けないことはないのである。