矢口進也『漱石全集物語』2016-11-24

2016-11-24 當山日出夫

矢口進也.『漱石全集物語』(岩波現代文庫).岩波書店.2016 (原著 青英社.1985 年表・参考文献に増補あり。)
https://iwanami.co.jp/.BOOKS/60/2/6022830.html

岩波書店が、あたらしく「定本 漱石全集」を刊行するにあたって、現代文庫で再刊したという本になる。このもとの本は、1985年の刊行であるので、1993年の「漱石全集」(全28巻、別巻1)のことについては、触れられていない。もちろん、今回のあたらしい「定本」版のことについては、言及がない。

私は漱石の全集は、二セット持っている。1974版の全17巻(別巻1)と、上記の1993年の28巻(別巻1)の、二セットである。

高校生のころから、漱石の作品は読んできている。好きな作家であったといっていいだろう。岩波書店から、全集が刊行になるというので、これはねだって買ってもらったものである。ただ、ちょっと安く買うために、当時、京都にあった取次店から直に買ったのを覚えている。

特に、『猫』はよく読んだ。大学受験を目の前にして、鬱屈した時間をすごすなかで、唯一読めた本といってよいかもしれない。(この意味では、漱石の「神経衰弱」がある程度は理解できるつもりでいる。)

ところで、この『漱石全集物語』であるが、いろんな意味で面白い本である。(よくぞ、岩波書店が、この本を出したものだと思う。内容的には、決して岩波書店に対して好意的な観点では書かれていない。その本文校訂をめぐっては、どちらかといえば批判的な立場である。)

この本、すくなくとも、文学、特に、近代文学を学ぼうとしている学生にはすすめておきたい気がする。一般の文学研究の場合、どの本をもちいるのか、まあ、「全集」が出ているなら、それにしたがっておけばよいというのが、常識的なところだろうとは思う。

しかし、その「全集」が漱石の場合、多種多様な校訂で出されている。たとえば、岩波の新しい版のように、自筆原稿の誤字まで残すのが正しい校訂本文といえるのかどうか、このあたりのことは考えてみる必要があるだろう。

この意味では、青空文庫の本文も批判的にあつかわれてよい。漱石の作品の多くは青空文庫にはいっている。基本的に、私は、青空文庫は、その企画そのものについては、高く評価する立場をとる。しかし、個々の作品の本文校訂にまで、細部にわたってみるならば、いろいろと問題があることは、容易に理解される。いや、このような問題点があることをふまえたうえで、それでも利用価値があるというところで、青空文庫の本文はつかわれるべきなのであろう。

近年の「全集」の企画といえば、中央公論新社の「谷崎潤一郎全集」がある。それから、晶文社の「吉本隆明全集」がある。もう、「全集」の時代ではないといえるのかもしれないけれども、漱石、谷崎、吉本あたりについては、みんなで共有する基本的テキストを集成したものとして「全集」があってもよいとは思っている。ただ、その販売方法は、今の時代にあわせたものを考えるべきであろうが。

ともあれ、『漱石全集物語』は、「全集」として本が出ているからといって、その本文を信用していいかどうか、このことを、実例に即して教えてくれる本である。どの「全集」のどの「本文」をつかうべきか、考えて見る必要がある。近代文学ならではの本文校訂の問題をかんがえるのに、非常によい本だと思う。

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