こうの史代『この世界の片隅に』2016-12-11

2016-12-11 當山日出夫

こうの史代.『この世界の片隅に』(上・中・下).双葉社.2008
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-94146-3.html?c=20108&o=date&type=t&word=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%89%87%E9%9A%85%E3%81%AB

いま、話題の映画の原作である。
http://konosekai.jp/

私は、基本的にはコミックは読まないことにしている。(このジャンルまで手を出すと、「読んでいない本」がさらに増える)。だが、これだけは、読んでおきたい気になって買ってみた。(これ以外では、他に『空母いぶき』があるのだが。)

読んでみての感想は基本的に次の二点。

第一に、こうの史代の漫画ならではの表現であるということ。調べてみると、この作品のノベライズ版もあるようだが、しかし、これは、漫画でないと表現できない作品であると感じる。

ただ、それは、漫画についてのリテラシの無い私としては、表現することばを持たない。これは、残念である。

こうの史代については、平凡社のHPで、『ぼおるぺん古事記』を読んで、その表現力の確かさを知っていた。
http://webheibon.jp/kojiki/

たぶん、この作品全体からただよってくる淡い叙情性のようなもの……それは、一方で悲惨な戦時下の生活でもあるのだが……これは、文章化してしまうことはできないだろうと感じる。その絵の雰囲気から感じる何かなのである。

第二に、太平洋戦争の戦時下の日常生活を描いた作品であること。たしかに、文学作品、あるいは、ノンフィクションとして、戦時下の生活を描いた作品はある。だが、この作品ほど、「平凡な日常のいとおしさ」とでもいうべきものを、表現した作品を、私は知らない。逆に、その悲惨さを強調したものなら、いくらでも見つけることができるだろうが。

たとえば、
やまもも書斎記 2016年9月16日
半藤一利『B面昭和史 1926-1945』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/16/8191044

戦時下の、いわゆる「非常時」であっても、それでも、人びとは、普通の生活をしている。寝て、起きて、食べて、家事をして、そして、家族があり、また、近所の人たちとのつきあいがある……このような「日常」は、続くものである。それは、戦争が始まっても、また、終わっても、変わることなく続いていく。

作中、玉音放送の場面がある。8月15日である。そして、その前に、広島への原爆の投下も描かれる。生活に多少の変化は確かにある。だが、そのような中にあっても、毎日おなじようにすぎていく日常生活が根本から変わるわけではない。

日常生活のいとおしさを描いているからといって、この作品は、特に、時局に抗した反戦平和を訴えるという性格のものではない。いや、むしろ、そのような政治的主張からは、もっとも遠いところに視点を定めている。

たぶん、日常のいとおしさを奪うものは、たとえ、それが「革命」であったとしても、同じように、何かしら嫌悪すべきものとして描かれることにちがいない。いや、どうしようもない大きな歴史の何か、とでもいうべきかもしれない。

以上、二点が、この作品を読んでみての、ざっとした感想である。

なお、蛇足で書いておくと……この作品中に、りんという女性が登場する。妓楼につとめている。この女性は、小学校にまともに通えなかったので、字がきちんと読めない。リテラシがないという人物設定。

私は、これまで、日本語史の講義において、日本人のリテラシについては、時折言及することがあった。そのとき、これなら学生でも知っているだろうと思って、例に出していたのは『おしん』(NHK)であった。ヒロインおしんの母親は文字が読めない。また、おしんが勤めていたカフェの女給たちも字が書けなかった。

さて、『この世界の片隅に』なら、今の学生でも読んでいてくれるだろうか。つい近年まで、まともに学校教育を受けられなくて文字が読めないという人は、決して珍しい存在ではなかった、このことの事例として、りんという女性の話をしてみるのもいいか、という気がしている。

NHK「漱石悶々」2016-12-12

2016-12-12 當山日出夫

NHK、2016年12月10日
「漱石悶々」
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=07831

今年は、漱石没後100年。いろいろとある。いろんな本がでる。全集が新しくなる。展覧会などもある。だが、NHKが、漱石を題材にして、二回もドラマを作るとは思っていなかった。(録画しておいて、翌日に見た。)

先に放送した「夏目漱石の妻」については、感想など書いてある。

やまもも書斎記 2016年9月27日
『夏目漱石の妻』第一回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/27/8203152

やまもも書斎記 2016年10月3日
『夏目漱石の妻』第二回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/03/8208735

やまもも書斎記 2016年10月10日
『夏目漱石の妻』第三回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/10/8219701

やまもも書斎記 2016年10月17日
『夏目漱石の妻』最終回
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/17/8230915

この「夏目漱石の妻」はなかなか面白いと思ってみていたのだが、こんどは、「漱石悶々」として、晩年の、漱石の京都旅行を題材にしている。

はっきりいって、一番おどろいたのは、番組が終わって、京舞の指導のところに、井上八千代の名前を見たときだった・・・

たしかに、テレビで見る限りではあるが、宮沢りえの舞はきれいだった。

晩年の漱石の京都旅行のことについては、『夏目漱石』(十川信介)を見ると記載がある。

十川信介.『夏目漱石』(岩波新書).岩波書店.2016
http://www.iwanami.co.jp/book/b266482.html

この本の252ページ、「京都旅行」として、大正4年3月に、津田青楓にさそわれて京都に旅行したこと、北大嘉に泊まったこと、一力の大石忌をみたこと、そして、祇園の大友の女将の磯田多佳と交際したこと、胃の具合が悪くなってたおれたこと、妻の鏡子がかけつけたこと・・・など、まさにドラマの描いた内容が、簡略に記されている。

ここで、漱石全集…私は、新旧二セット持っている、今度、新しいのが出る…の書簡集を探ってみよう・・・という気にはならない。まあ、ドラマはドラマとして楽しめばいいと思って見ていた。

ドラマとしては、漱石の晩年の日常(漱石山房)と非日常(京都)、それから、人間の心の奥底にある善意と悪意の錯綜する様、そのようなものを感じ取ればいいのかと思う。

作品としては、『硝子戸の中』の前であり、小説としては、『行人』から『道草』の間、ということになる。『硝子戸の中』のことは、ドラマの中でも登場していた。

いわゆる「則天去私」というような発想は、このドラマには見られなかった。それよりも、人間のうわべの行動の背後にある本当の意味、善意と悪意の交錯、いや、善意で行動しながらもそれが相手に伝わらないもどかしさのようなものだろうか。この意味では、『彼岸過迄』『行人』あたりの世界かな、という気がしている。

来年(漱石生誕150年)は、もうドラマは作らないのだろうか。晩年の漱石山房にあつまった人びとの様子を描くだけでも、かなり面白いドラマができそうにおもうのだが。

『真田丸』あれこれ「前夜」2016-12-13

2016-12-13 當山日出夫

『真田丸』2016年12月11日、第49回「前夜」
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story49.html#mainContents

いよいよ次回が最終回か。

今回のポイントは二点(あるいは三点)。

第一に、真田の一族、兄弟としての、結束と、それぞれの主君(豊臣・徳川)の忠誠心の相克。このドラマの最終盤のここにきて、再度、真田というイエの一族であることを、それぞれの立場で再確認しているようである。そして、それと同時に、信繁(幸村)の豊臣への忠誠心が描かれる。

その信繁(幸村)の忠誠心は、大蔵卿局からすれは、牢人はきらいだ、といわれても、捨てることのできない、自分のアイデンティティなのであろう。

第二に、興味深かったのは、家康と上杉のシーン。この戦(大阪の陣)に「義」はあるかどうか、問いかけられて、はぐらかしてしまった。これが、これまでの大河ドラマであったならば、平和な世の中を築くためのやむを得ない戦である、というような論理でとおしていたところだろう。それを、今回の『真田丸』では、そのようには描かない。

むしろ、豊臣と徳川の覇権争い、といった側面を描いている。平和な世の中になるかどうかよりも、徳川が日本を支配するために、豊臣が邪魔になるという見方である。このような露骨とでもいうべき、覇者の論理を出してきたのは、新鮮な感じがする。

それから、第三には、最後のシーン。信繁(幸村)ときりの、お互いの気持ちを確かめ合うところ。これを最終回になる最後にもってきたところで、ここまで描いてきた、様々なきりをめぐる場面が、回収されることになっている。これは、巧い脚本だと思う。

次回は、「最終回」。信繁(幸村)をはじめとして、秀頼、茶々など、それぞれが、どのような最期をむかえることになるのか。

定本漱石全集『吾輩は猫である』2016-12-14

2016-12-14 當山日出夫

夏目漱石.『定本漱石全集:吾輩は猫である』.岩波書店.2016
http://www.iwanami.co.jp/book/b266526.html

この本、発売は12月10日以降であったと思うが、奥付を見ると、12月9日と記してある。9日は、漱石の命日である。

いろいろ考えたすえであるが、この新しい全集を買うことにした。

私はすでに、漱石全集は二セット持っている。
1974年版の17巻(別巻1)
1993年版の28巻(別巻1)
である。

特に、後者(1993年版)と、今回の版と大きく内容が変わるわけではないようだ。確かに、一部では、新出資料があったり、部分的に作品の本文校訂が変わるとことはあるらしい。しかし、これまで漱石は、古い校訂で、あるいは、一般には文庫本などで読まれてきたのであり、普通に読むのには、それで十分だともいえる。

では、なぜ、今回の全集を買ってみようという気になったのか。それは、自分へのモチベーションのためである。

私は、漱石の作品は、数年おきぐらいには、主な小説類(『猫』から『明暗』までぐらい)を、読み直すことにしている。いままで、何回、読んだことだろうか。

しかし、その書簡とか漢詩、俳句などは、あまり読まずにきているということもある。これらも、一度は、読んでみたいものである。古い全集を取り出してきて読んでもいいのだが、せっかくなら新しい全集の新しい活字で読んでみたい、このような気もする。

これから、月に一冊の漱石全集の配本を追っていくぐらいの時間の余裕はとれそうである。これを機会に、漱石全集を、読んでみたいという気持ちになっている。

とはいえ、私は、漱石を研究しようという気はまったくもっていない。近代文学研究のような分野からは、まったくの門外漢であると同時に、いまさら、何を言おうという気もない。ただ、ひとりの読者として、若いころ(高校生のころ)から漱石を読んできて、また、読みたくなっているというだけのことである。

しかし、今は12月。毎年恒例の、年末の、今年のミステリーが発表される時期である。読んでおきたい本が、たくさんある。まあ、なんとか頑張って読むことにしよう。

桜木紫乃『風葬』2016-12-15

201-12-15 當山日出夫

桜木紫乃.『風葬』(文春文庫).文藝春秋.2016 (原著 文藝春秋.2008)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167907464

新しく文庫版で出た作品であるので、さっそく読んでみた。

そうたいした分量のある作品ではないのだが、途中に一日の中断がはいって、読み終えた。結論からすると、よく分からなかった……というのが、正直なところ。ミステリーとして書いてあるのだけれども、いったい何が謎の核心なのか、その解明はどうなのか、はっきりしない作品である。(やはりこの作品は、いっきに読むべきであったか。)

とはいえ、桜木紫乃の北海道を舞台にした作品として、そのテイストを愉しむには十分なできばえであるといえよう。

「九月、久しぶりに訪れた釧路の街は既に秋風が吹いていた、海辺の街特有の、抜けるように高く青々とした空の下、勇作はアクセルを踏んだ。」(p.72)

「秋風吹く釧路の空は、霧で曇りがち夏を取り戻すためなのか色が濃い。住んでいた頃は少しもありがたいと思わずにいた秋空を振り仰ぐ。絵の具をどう調合しても描くのは難しいと言われる道東の空が、鮮やかで温かな寒色を横たえてどこまでも広がっていた。」(p.152)

この作品も、北海道、その釧路あたりの空の描写が特徴的である。

ただ、作品としてみた場合、いろんな要素……いじめ、密漁、殺人、出生の秘密、老いの孤独、などなど……さまざまなものが、一緒になって凝縮されている。これだけの要素を一つの作品のなかにまとめるのは、いささか無理があったのではないか、という印象をもつ。たしかにこれらのテーマは、桜木紫乃の描く重要なテーマだろうとは思うのだが。

これまで読んだ桜木紫乃の作品としては、『氷平線』『ラブレス』『ホテルローヤル』がいい。現代を描いている作家として、桜木紫乃の作品は、これからも読んでおきたいものとしてある。

次に読んで、書こうと思って用意してあるのは『硝子の葦』(新潮文庫)。それから、『起終点駅(ターミナル)』(小学館文庫)。

浅田次郎『見上げれば星は天に満ちて』2016-12-16

2016-12-16 當山日出夫

浅田次郎の主な作品は読んできたつもりでいる。最新刊の、『天子蒙塵』も買ってはあるのだが、まだ、読む順番がまわってこないでいる。『蒼穹の昴』につづくシリーズなので、これも読んでおきたいと思っている。なお、ちなみにいえば、浅田次郎で私が最も好きな作品は、『きんぴか』と『プリズンホテル』である。まあ、初期の作品が好みということになる。

この浅田次郎は、また、卓抜な小説の読み手でもある。その小説の読み手として、編んだアンソロジーが『見上げれば星は天に満ちて』である。

浅田次郎(編).『見上げれば星は天に満ちて 心に残る物語――日本文学秀作選』(文春文庫).文藝春秋.2005
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167646059

日本近代文学のなかから選んだ短編小説集である。そう多くないので、一覧をしめす。

『百物語』 森鴎外
『秘密』 谷崎潤一郎
『疑惑』 芥川龍之介
『死体紹介人』 川端康成
『山月記』 中島敦
『狐憑』 中島敦
『ひとごろし』 山本周五郎
『青梅雨』 永井龍男
『補陀洛渡海記』 井上靖
『西郷札』 松本清張
『赤い駱駝』 梅崎春生
『手』 立原正秋
『耳なし芳一のはなし』 小泉八雲

このうち『山月記』『耳なし芳一のはなし』などは、ほとんどの人が知っている作品にちがいない。

浅田次郎という作家、多方面に活躍している作家であることは承知しているつもりであるが、その作品の根底にあるものが、このアンソロジーにもあらわれている。

それは、主に次の二点になる。

第一には、幻想性である。浅田次郎の作品の多くは、何かしらの幻想性をおびている。たとえば、長編では『一刀斎夢録』などがそうだろう。全編、これ幻想といってもよい構成になっている。代表作ともいうべき『壬生義士伝』も、その最期のシーンは、ある種の幻想的場面でおわっている。また、直木賞受賞作の短編『鉄道員(ぽっぽや)』も、幻想小説といってもよい。

このアンソロジーの多くは、ある種の幻想的な雰囲気のある作品が多く入れられている。たとえば、『山月記』など著名な作品であるが、これも、読み方によっては、ある意味で幻想小説と読むこともできよう。『耳なし芳一のはなし』もそうである。この他にも、そう思って読むと、何かしら幻想的な雰囲気を感じさせる作品がいくつかある。

第二には、人間のおろかさである。愚直さといってもいいかもしれない。そのような人間のあり方を、浅田次郎は、哀惜をこめて描く。『壬生義士伝』など、愚直な生き方しかできなかった人間の悲哀を描きあげた作品といえるだろう。そして、このアンソロジーも、この目でみるならば、人間のおろかさ、愚直さを描いた作品が目につく。『ひとごろし』『補陀洛渡海記』などである。

以上の二点が、浅田次郎作品にも共通する点として、指摘できようか。幻想性、それから、人間の愚直さ、である。そして、このような視点で選び出された作品が、基本的に年代順に並べられている。非常にすぐれた、日本近代文学のアンソロジーとしてしあがっている。

上記のように考えてみるならば、『倫敦塔』(夏目漱石)がなぜはいっていないのか、といようなことが気になる。中島敦が二作もはいっているのに。まあ、このあたりは、編者(浅田次郎)の個人の好みの反映ということになるのであろう。

この本、これはこれとして面白い編集になっていると同時に、浅田次郎がなぜこの作品を選んだかを考えていくと、浅田次郎作品を読み解いていく視点ともなる、そのような編集になっている。

近代文学の小説、そのなかでも上述のような、ある種の幻想性があったり、人間の愚直さを描いたりというような作品が好みの向きには、かっこうのアンソロジーとして楽しめる本だと思う。浅田次郎の作品を読んでいるような人ならきっと気にいる本である。

桜木紫乃『起終点駅 ターミナル』2016-12-17

2016-12-17 當山日出夫

桜木紫乃.『起終点駅 ターミナル』(小学館文庫).小学館.2015 (原著 小学館.2012 文庫化にあたり改稿)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09406136

ネットでこの本を検索してみると、多くのHPがヒットする。映画化されているとのこと。(私は、この映画は見ていない。)

やはり、桜木紫乃は、北海道を舞台にした短編、それも、どこかで人生に行き詰まりを感じているような、世の中の片隅の人びとを描いた作品がいい。この短編集も、まさに北海道を描いている。

文庫本の解説を読むと、雑誌連載のときのタイトルは「無縁」であったとある。なるほど、と思うタイトルである。

この短編集に出てくる人物は、なにがしかの意味で、今日の「無縁社会」を生きている、あるいは、そのように生きざるをえないという人びと。しかも、社会の表舞台で活躍するというのではなく、市井にひっそりと、ささやかに、暮らしている人びと。

表題作「起終点駅」の主人公、鷲田完治は、釧路の街の弁護士。しかも、国選の仕事しかしないという生き方を自ら選んでいる。

「完治は妻と子供に生活費を送り続けるために、釧路の街で弁護士になった。釧路を選んだ理由は、友人も知人もいない街だったからだ。」(p.105)

「酒も煙草もやらない生活は、料理と衛星放送の映画が埋めた。他人と関わらずに済み、かけようと思えばいくらでも手間暇のかかる趣味を得て、完治の生活はこの街を霧のように漂っている。」(p.111)

まさに「無縁」をもとめて生きる人間の生き方である。

だが、「無縁」であるからそこに救いが無いかといえば、そうではない。最後には、そのような生き方を選んだ人間にも、充足するときがやってくる。決して幸福とはいえないかもしれないが、逆に、不幸で惨め、というわけでもない。上記の引用のように「無縁」のなかにただよっている、しかし、なにがしかそれでみたされている人生がある。

それが、北海道にうまれ、そこに生きる人間の生き方、そして、それは、まさに現代という時代を生きる人間の生き方として、描かれている。

桜木紫乃の小説、短編集としては、おすすめとしておきたい。

塩田武士『罪の声』2016-12-18

2016-12-18 當山日出夫

塩田武士.『罪の声』.講談社.2016
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062199834

今年の週刊文春の年間ミステリーの一位(国内)になった作品である。また、山田風太郎賞もとっている。

週刊文春ミステリーベスト10 2016
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/6834

山田風太郎賞
http://www.kadokawa.co.jp/award/yamada/07.html

ともあれ、年末になると、各種のミステリーのランキングが発表になる。読んでいない本がほとんどという状態なので、トップになった作品ぐらいは読んでおくべきかと思って読むことにしている。そのような作品が選ばれるには、それなりの理由があってのことだと思うので。

読んでの感想としては……まさに今の時代だから書くことのできた小説だな、という印象。周知のごとく、この小説は、グリコ・森永事件をモデルにしている。

グリコ・森永事件のあったのは、1984~85年。昭和でいうと、59~60年になる。今から思い出せば、昭和のおわりのころ、まだ、バブル景気になる前の時期、ということになる。

私は、1955(昭和30)年の生まれであるから、当然ながら、この事件のことは記憶している。「キツネ目の男」と言われて、すぐに、あのイラストの男か、と思い浮かぶ。

だが、そんなに事件の詳細を憶えているわけではない。さすがに、30年以上も前のことである。事件の輪郭、主な出来事が、記憶の断片として残っているにすぎないともいえる。

そのせいであろうか、この本を読んで、実際にあった、グリコ・森永事件での出来事と、小説内での事件(これは、ギン萬事件となっている)が、混同してしまう。はて、事実はどのようであったのか(=ニュースでは、どのように見たのだろうか)、ということを、ついつい思い出しながら読んでしまう。

これは、おそらく、私ぐらいの年齢以上、若くても50才以上の年齢の人なら、同様の感覚で読むことになるはずである。

しかし、若い人……30才代より若い……にとっては、この事件は、はるか昔の昭和の事件ということになり、そんなにはっきりとした記憶があるというわけではないだろう。そのような人にしてみれば、あるいは、この小説は、実際にあった犯罪・事件をモデルにしたミステリーとして読むことができよう。たぶん、そのようにしか読めないはずである。

それは、私の年代で、たとえば、「帝銀事件」と言われて、歴史上の事件であることは知識として知っていても、記憶としてはもっていないのに近いかもしれない。

そして、この小説『罪の声』である。これは、まさに、私のような世代の人間もいれば、それより若い世代の読者もいるという、この時期ならではの作品といわざるをえない。もう10年たってしまえば、もうほとんど過去の歴史上の事件になってしまう。あるいは、逆に、10年はやければ、より多くの人が体験的に知っている出来事として、その真相は、という興味で読まれることになる。

その真相は、もはやどうでもいいのかもしれない。いや、この作品は、それなりに、この事件の真相を明らかにしている。だが、それは、小説という虚構であることが自明の世界においてである。このような真相であり得たかもしれないというフィクションを、どれほど説得力ある描写で記述できるか、である。

そして、この作品は、それに成功しているといってよい。今年のミステリーベストに入るだけの作品であることは確かである。また、小説におけるフィクション(虚構)とはいかなるものか、考えるヒントを与えてくれるにちがいない。

NHK「ブラタモリ」目黒2016-12-19

2016-12-19 當山日出夫

学生のころ、東京都目黒区目黒に住んでいた。下宿。最初は四畳半の部屋で、その後、もうすこし広い部屋にうつった。ここは、慶應の学生に限って下宿人を選んでいるというところだった。

街の医院の二階だった。今は、その医院はない。主人(お医者さん)が、亡くなって、その家を家族がたちのくことになって、私も引っ越した。引っ越し先は、板橋にした。

三田からだと、地下鉄(都営三田線)で一本でいける。途中、神保町がある。本が買える。そして、比較的家賃が安い。しかし、私の周囲に、このような選択肢で板橋に住むという人はいなかったようだ。

ともあれ、目黒には東京で住んでいたときのうちの数年をすごしていたことになる。

で、2016年12月17日放送のNHK「ブラタモリ」は、目黒が舞台。これは見た。番組は、中目黒からはじまっていた。そうだろうなあ……山手線の目黒駅は、実は品川区にある。品川から、目黒の話を始めるわけにはいかないだろう。

番組に出てきた土地は、だいたい私の土地勘のあるところが多かった。目黒不動には一回ぐらいは行っただろうか。目黒川のほとりはよく歩いたものである。行人坂も通ったことがある。確か、私の記憶では……権之助坂の上からも、富士山が見えたように憶えているのだが、どうだろうか。(ただ、ここは、品川区になってしまう。)雅叙園のあたりも、よくあるいたところ。

しかし、防衛省の研究所は知らなかった。(そこで、海軍の技術開発が行われていたことも、番組で初めて知った。)

ところで、番組に出てきた、三田用水で思い浮かんだことがある。三田というと、港区の三田をまず考えるだろう。慶應義塾大学である。ところが、目黒区にも、三田の地名がある。現在でもある。三田用水は、このあたりを通っていたかと思った。

そこで、ジャパンナレッジの『日本歴史地名大系』で、三田を検索して、目黒の三田を探してみた。やはり、三田用水は、この場所を通っていたようである。地図で見ると、山手線は、ちょうど、目黒区の三田を縦断するようにはしっている。私は、東京に住んでいたころ、三田(目黒区)を歩いたことはないが、山手線に乗って、いつも通過していたことになる。

数年前、東京に行ったとき、久々に目黒の街をあるいていみた。昔と変わってしまったところ、そして、変わらずに残っているところ、いろいろだった。そのなかで、目黒川のたたずまいは、昔のとおりだったという印象がある。特に、昔の目蒲線との乗り換えが大きく変わっていて、とまどった。

できれば、あまり変わらずにいてほしい街のひとつでもある。

『真田丸』あれこれ「最終回」2016-12-20

2016-12-20 當山日出夫

『真田丸』2016年12月18日、「最終回」
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/story/story50.html#mainContents

やっと最終回になった。

見どころはいくつかあるが、やはり私としては、何故、信繁が戦うのか、そのこころの根底にあるもの……エトス……を、どのように描き出すかということである。この意味で、興味深かったのは、最後の方の、家康との一対一の対決のシーン。

家康は言う……殺すなら殺すがよい。徳川の世は盤石である。もう豊臣の時代ではない。おぬし(信繁)のような、戦のなかにしか生きられない人間の時代は終わった。

それに対して、信繁はこたえる……そのようなことは承知している。しかし、自分にはそのような生き方しかできなかったのであると。それが、自分の生き方なのであると。

ドラマとしては、このシーンがクライマックスということになるのだろう。この観点からは、ある意味で、信繁が、ある種のパトリオティズム(愛郷心)をこころのうちに秘めていたことが、感じ取れる。死んでいった愛するものたちのために戦っていると、言っていた。

天下をとるためでもない、あるいは、豊臣への忠誠心だけからでもない、徳川への対抗心だけでもない……様々な感情が入り交じって、その結果、そのようにしか生きられなかった、戦わざるをえなかった信繁のエトスを、信繁自身のことばで語らせたシーンということになるであろう。

これまでの大河ドラマでよく見られたような、「戦乱の無い平和な世の中をきずくため」など、という論理は出てきていない。このあたりが、『真田丸』が、従来の大河ドラマと違った面白さを与えてくれたポイントかと思う。このいさぎよさがあってこその、真田信繁のエトスである。

だが、そのわりには、実際に徳川がどのような政治をおこなってきたのか、それは、豊臣の治世とどのように仕組みが違うのか、徳川の支配はどのようなものであったのか、こういった、政治制度的な側面が、ドラマでは、ほとんど描かれずにきたのは、ちょっと惜しい気がする。このあたり、豊臣の治世と、徳川の治世の違いを描いていれば、最後の対決シーンは、もっと説得力のあるものになったにちがいない。

それから、強いて気になった点といえば、昔の大阪城の周囲に、番組に出てきたような草原があったのだろうか。まあ、これは、フィクションとして見ていればいいのかもしれないが。

ともあれ、このドラマは、一年間、面白かった。