「歌姫」の用例をすこし2017-01-11

2017-01-11 當山日出夫

『アンナ・カレーニナ』を読んで、気になったことばがあったので、付箋をつけておいた。

トルストイ、木村浩(訳).『アンナ・カレーニナ』(上・中・下)(新潮文庫).新潮社.1972(2012改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/206001/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206002/
http://www.shinchosha.co.jp/book/206003/

ひろったことばは「歌姫」である。該当箇所を〈 〉で示す。

オブロンスキーはもう伯爵夫人を相手に、新しい〈歌姫〉の話しをていた。
上巻 p.162

有名な〈歌姫〉が二回目に出るというので、上流社交界の全員が劇場に集まっていた。
上巻 p.315

この〈歌姫〉の才能の特色について人から何百ぺんと聞いたことを繰り返しはじめた。
中巻 p.339

他にもあったのかもしれないが、気のついたのは以上である。

「歌姫」の語、日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)では、語釈(1)の「歌を巧みにうたう女。また、芸妓をみやびやかに呼ぶ語。」では、用例が示してあるが、語釈(2)の「女性歌手。女流声楽家。」には用例が無い。

上記、『アンナ・カレーニナ』の訳文の用例は、どちらに該当するであろうか。

女性歌手という意味でつかう場合と、芸妓の別称とは、分けて考えた方がよいかもしれない。

なお、中島みゆきの『歌姫』は、アルバム『寒歌魚』に収録。これは、1982年。

『おそろし』宮部みゆき2017-01-12

2017-11-12 當山日出夫

宮部みゆき.『おそろし-三島屋変調百物語事始-』.角川書店.2008
http://www.kadokawa.co.jp/product/200802000594/

この本、文庫本もでているが、単行本で読んだ。古本である。オンラインで買って、格安だった。

最近、このシリーズの最新刊が出た。第四冊目である。

宮部みゆき.『三鬼-三島屋変調百物語四之続-』.日本経済新聞社.2016
http://www.sanki-mishimaya.com/

宮部みゆきのシリーズものなのだが、出版社は決まっていないようである。が、ともあれ、最新刊が出たので、さかのぼって読み直すことしてみた。実は、この作品『おそろし』、以前に読んではいる。しかし、その時は、このシリーズがここまで続くとは思っていなかったので、そのままにしてあった。その時に読んだ本は見当たらないので古書で買った。

多彩な方面に活躍している作家であることは言うまでもない。現代ミステリも書けば、時代小説も書く。本格も書けば、ファンタジーめいた作品もある。この『おそろし』は、時代小説として、強いてジャンルをわければ、ファンタジー、あるいは、ホラー、と言ったところか。といって、そんなに、恐ろしい化け物が出てくるというわけではない、摩訶不思議な事件についての、連作短編である。

宮部みゆきは、時代小説としては、本格は書かないようだ。また、シリアスにその時代を克明に描くということもしない。これまで読んだ作品としても、『ぼんくら』とか『孤宿の人』とか『桜ほうさら』とか、時代小説でありながら、どこか謎めいたところがあり、ファンタジーでもいうような要素をもっている。

私が宮部みゆきを読み始めたのは、いつのころだったろうか。印象に残っている作品としては、『幻色江戸ごよみ』、『蒲生邸事件』などがある。特に、『幻色江戸ごよみ』は、その語り口のうまさに感じ入ったものである。

それから、『昭和三十年代主義』(浅羽通明)で『模倣犯』が分析の対象になっていて、その浅羽通明の分析のするどさに関心しながらも、同時に、そのような作品を書いた宮部みゆきという作家に興味をもつようになった。その後、『ソロモンの偽証』も、単行本で出たときに買って読んだ。

浅羽通明.『昭和三十年代主義-もう成長しない日本-』.幻冬舎.2008
http://www.gentosha.co.jp/book/b1655.html

で、『おそろし』である。ふとしたことから、江戸の三島屋に住むことになったおちかが主人公。そのおちかのもとをおとずれて、何かしら不思議な話を語る。「百物語」の趣向である。

ただ、難をいえば、時々、ストーリーの展開に無理をしているかな、と感じないところがないではない。だが、そうはいっても、宮部みゆきのことである。その独自の語り口のうまさで、それを意識させることがない。とにかく、登場人物が納得するような形で、なんらかの決着をつけている。

宮部みゆきという作家、現代を舞台にしては、まことにシリアスな作品を書いている。『火車』などがその代表かもしれない。その一方で、どこか、ほんわかした感じの時代小説も書く。だが、それが、たんなるほのぼのとした感じで終わることはない。どこか、謎めいた、人間の心のふかい淵をのぞき見るようなところがある。

人間というものを描いて、現代で希有な作家のひとりであることは確かなことである。このシリーズについては、四冊目が出たのをきっかけにして、再度、読み直してみるつもりでいる。(買うだけは買ってそろえてある。たぶん時間もとれると思うので読めるだろう。)

電話機を新しくした2017-01-13

2017-01-13 當山日出夫

去年、我が家の電話機を新しくした。それまで使っていた電話機(親機と子機)が、時々、調子の悪いことがあった。外から我が家に電話をかけてきて、つながらないということがあったらしい。

その電話機にしたのは、今の住まいの建物を建てた時であったと憶えているので、たしか、20年ぐらい前のことになる。家の中の、どこかの場所で電話がとれるように、また、玄関のドアホンと接続できるように……ドアホンのボタンを押すと、家の中の電話機が反応する……そのような設定にした。

さすがに20年ちかくも使ってくると、寿命かなという気がしないでもない。現在の機種のなかで、子機をもっとく多く接続できる、また、ドアホンとも同時につながる、という機種を、電気屋さんにたのんで、設置してもらった。

結果として、私の部屋にも、その子機の一台がある。そして、私の部屋には、FAXもあれば、携帯電話もおいてある。着信したとき、どれが鳴っているのか分からないでは困る。今の電話機、それから、携帯電話は、着信音が選べるようになっている。ともかく設定を変えて、どの電話・FAXが鳴っているのか、分かるようにした。

私の携帯電話、電話の着信音は、アメイジング・グレイス、これは、昔、携帯電話を持ち始めたときから、これに決めている。家族からのメッセージ(駅に迎えに行く時間の連絡が主である)は、エンターテナーにしてある。電話機は、ジュピター。FAXは、デフォルトの着信音。これは、FAX専用であるから、応対する必要がない。

それにしても、家の自分の部屋にいても、電話、携帯電話、携帯メッセージ、FAXと、それに玄関ドアホン、いろんな音を聞き分けなければならなくなっている。これは、はたして便利になったのかどうか。

スマホを持たない主義2017-01-14

2017-01-14 當山日出夫

昨日は、私の部屋の電話機などのはなし。自分の部屋にいても、電話に携帯電話に、メッセージに、FAX、それから、パソコンの電子メール、など。

だが、そのような環境のなかにあっても、まだ、私は、スマホは持たないことにしている。携帯電話は持っているが、その番号を教えてあるのは、基本的に家族のみ。

家の自分の部屋にいれば、目の前にパソコンがある。24インチのディスプレイがある。キーボードもある(これは、東プレ製にこだわっている。)そして、家を出たときぐらいは、パソコンからも、インターネットからも解放されたいと思う。

家をはなれて外に出たときぐらいは、インターネットからも、電話からも、自由になりたいのである。最近のことばで言うならば、WEBにつながらないでいる権利、といってもいいだろう。現代の社会においては、これは、ある意味で贅沢なことかもしれないが、私の場合、これができる状況にいる。強いて、この「権利」を手放そうとは思っていない。

また、スマホでも音楽は聴ける。しかし、音楽を聴くのであれば、Walkmanの方がいい音が出るにきまっている(と、思っている)。

まあ、ようするにモノグサなのであろう。あるいは、もう年をとってきて、老眼になってきているので、小さい文字が見にくい、ということもある。使わないで済ませることができるものなら、このまま持ちたくはない。

ただ、将来のこと……自動車の自動運転ということが、もし始まるとするならば、道を走っている自動車に、歩行者(自分)のことを認識させるためのなにがしかの機器は、持っていないと危ない、という時代がくるかもしれない。それは、そのときで、考えることにするつもりでいる。

『宗教学の名著30』島薗進2017-01-15

2017-01-15 當山日出夫

島薗進.『宗教学の名著30』(ちくま新書).筑摩書房.2008
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480064424/

このところ、ちくま新書の『~~の名著30』のシリーズを手にしてながめている。文字通り、眺めているであって、具体的にそこに掲載されている本を読もうというところまではいっていないのであるが。

この本もそのひとつ。学問的な研究分野としては、宗教学は、私の専門ではない。しかし、その周辺に属する領域のことを勉強してきた。そして、宗教学、あるいは、宗教についての書物というものも、ある意味で、ひろい意味での「文学」にふくめて考えてよいと思う。

「はじめに」のところを読み始めて、ちょっと驚いた。

「宗教学は発展途上の学である。」(p.9)

とある。つづけて、

「すでに成熟して果汁がしたたり落ちるような学問分野も、あるいはすでに衰退の相を示している分野もあると思うが、宗教学はまだ若い。青い果実の段階だ。というのは、その望みが大きいからである。(中略)「未来」の学とも言えるし、なお「未熟」とも言える。」

仏教学とか、キリスト教学とか、ゆうに千年以上の歴史があるのに、と思ってつづきを読む。

「まず、古今東西を見渡して、安心して「宗教」という言葉を使える段階に至っていない。「宗教」だけではない。西洋中心の宗教観にのっとって形づくられた諸概念を超えて、世界各地で通用する概念の道具立てがまだ明確ではない。一九六〇年代以来、「宗教」という概念が近代西洋の考え方の偏りをもっていることが鋭く批判されていて、それにかわる「宗教」理解が願われているが、なお堅固な基礎をもった方針が形成されていない。」(p.9)

このような理解の上で、古今東西の主教にかかわる古典的名著の解説となっている。

「Ⅰ 宗教学の先駆け」では、
空海 『三教指帰』
イブン=ハルドゥーン 『歴史序説』
富永仲基 『翁の文』
ヒューム 『宗教の自然史』

順次見ていくと、

ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

とか、

柳田国男 『桃太郎の母』

などが、出てくる。つまり、宗教を、社会のあり方や民俗などとも関連させて論じようという姿勢がみてとれる。『プロテスタンティズム~~』などは、そう言われてみれば、たしかに、宗教を論じた書物であるとは理解される。

また、狭い意味での「文学」からも宗教にアプローチすることもできる。

バフチン 『ドストエフスキーの詩学の諸問題』

もあげてある。

文学作品を読むとき、その根底にある宗教観というものを抜きにして、本当の理解はないだろうと思う。ドストエフスキーしかり、トルストイしかり、そして、日本の『源氏物語』『平家物語』しかり、である。

これからの読書のてがかりとして、この本もそばにおいておきたいと思っている。

NHK『花嵐の剣士』2017-01-16

2017-01-16 當山日出夫

NHK『花嵐の剣士-幕末を生きた女剣士・中澤琴-』、2017年1月14日
https://www.nhk.or.jp/bs-blog/600/260370.html
https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/7000/250010.html

やや古風なことばをつかえば、撃剣ドラマ、ということになるか。

私の見たところでの印象を書いておくと、次の二点。

第一には、まず述べたとおりの撃剣ドラマとして作ってあるということ。それを描くのに、中澤琴という実在の人物をかりてきている。もちろん、ドラマとしてフィクションであるにはちがいない。しかし、実在した女性剣士を主人公とすることで、なにがしかのリアリティが生まれていることも確かなことだろう。

ともあれ、このドラマ、全編にわたって撃剣の連続である。特に、裾の長い着物を着ての(女性としての恰好での)立ち回りの場面、これなど、女性を主人公にするからこそ描けた。このドラマの見せ場の一つ。はじめて人を斬ったのも、この時。

第二には、新徴組という組織は出てくるのだが、特に、佐幕というスタンスでは描いていない。あくまでも剣士として、己の生きる道をさぐるために生きている、それがたまたま新徴組であった、というような設定になっている。

そして、新徴組、つまり、戊辰戦争における朝敵になるということで、最後は負けることもはっきりしている。(この負け戦において、中澤琴は、生き延びて昭和の時代まで長生きしたらしい。)

負けることになるからこそ、最後のに生き抜くための剣という方向性が見えてくる。

まあ、だいたい以上の二点が、感想として思い浮かぶことである。

なお、ついでにさらに書いておけば、幕末・明治維新という時代をどう描くか、という観点から見て、エンターテインメントとしては、特に、どの立場を主張するということもない。むしろ、時代の波に翻弄されるなかで、剣をたよりに生きていく姿を描くということになるのか、そのように思う。

蛇足……ところで、NHKの来年の大河ドラマは、西郷隆盛ということらしい。幕末・明治維新を描くことになる。これは、さすがに、単純にエンターテインメントとして作るというわけにはいかないだろう。なにがしかの歴史観というものを、描かざるをえなくなる。ここで、戊辰戦争の発端として、新徴組の江戸薩摩藩邸襲撃ということは、出てくるのだろうか。そして、中澤琴は登場するのであろうか。

『おんな城主直虎』あれこれ「崖っぷちの姫」2017-01-17

2017-01-17 當山日出夫

前回のは、
やまもも書斎記 2017年1月10日
『おんな城主直虎』あれこれ「井伊谷の少女」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/10/8313307

今回は、

『おんな城主直虎』2017年1月15日、第2回「崖っぷちの姫」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story02/

猫は今回も登場していた。

第二回を見て思ったことなどいささか。

井伊家のある井伊谷の描写が、いかにも牧歌的でのどかである。山の景色が美しい。この郷へのパトリオティズム(愛郷心)というものが、今後、このドラマの根底を流れることになるのであろうか。

そういえば、前作『真田丸』でも、最初の方の回では、信州・真田の郷ののどかな田園風景がよく出ていた。しかし、大阪に舞台が移ってからは、見えなくなった。今回はどうなるのだろう。直虎という人物は、基本的に、自分の領地から動くことはなかったろうと思っているのだが、この井伊谷の山里の風景は、今後も登場することになるのだろうか。

それから、第二回までを見た限りだが、今回のドラマの特色は、何よりも、脚本のわかりやすさだろう。井伊家という一般にはあまりなじみのない一族が中心になる。そのなかの人物関係、それから、今川との関係、これが非常にわかりやすく描いてある。

また、この意味では、ドラマが始まる冒頭で、前回のおさらいとでもいうべき内容をナレーションで語っていてくれる。それに、随所に、回想シーンがはいっている。これらの要素で、物語の筋道がとてもわかりやすい。こういう工夫は、よくできていると思って見た。

さて、次回も、猫はでてくるであろうか。

『あんじゅう』宮部みゆき2017-01-18

2017-11-18 當山日出夫

宮部みゆき.『あんじゅう-三島屋変調百物語事続-』.中央公論新社.2010
http://www.chuko.co.jp/tanko/2010/07/004137.html

特設HPもある。
http://www.chuko.co.jp/special/anjyu/index.html

このシリーズの第一作『おそろし』については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年1月12日
『おそろし』宮部みゆき
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/12/8317211

『おそろし』に続けて、この本を読んだ。この本は、文庫本(角川文庫)も出ているが、単行本で読んだ方がいい。理由は、挿絵である。もとは、読売新聞の連載。その時のものだろう、南伸坊のイラストが毎ページはいっている。

挿絵などなくても、物語を読むのにさしつかえない、と言ってしまえばそれまでである。しかし、この本で一番というべき作品「暗獣」(=あんじゅう)を読むとき、その南伸坊の描いた「くろすけ」の絵の印象が、とてもいい。小説の雰囲気、不気味ではあるのだが、なんとなくほんわかした人情味のある妖怪、というか、この世にはいるがこの世のものではないもの、その「くろすけ」のイメージが、まさに、そのイラストで表現されている。

この意味では、まさに紙の本の独擅場であると言ってよいか。電子書籍になってしまえば、この本のイラストのもつ雰囲気は伝わらない。イラストは、そのページのレイアウト(版面)とともにある。文字の大きさに合わせてリフローする電子書籍(キンドルなど)では、これを伝えることは不可能である。

たぶん、このイラストがあって読むのと、テキストだけで読むのとでは、この作品の読後感はかなり異なったものになるにちがいない。とはいえ、「くろすけ」をどのような姿の「妖怪」としてイメージするかは、読者の自由ではあろうが。

『おそろし』で始まった、「百物語」の続編である。この本は、それなりに独立して書いてあるので、この本だけで読んでもいいようになっている。しかし、ところどころ、前作のエピソードにちょっと言及したりするところもあるし、また、なぜ、おちかが三島屋に住み込んで女中の仕事をしているか、そして、三島屋で「百物語」を語り、聞く、ということになったのか、その背景を知っておくためには、『おそろし』から読んでおいた方がいい。

印象に残るのは、やはりタイトルにもなっている「あんじゅう」の話しだろう。「くろすけ」と名付けられることになる、ある古びた屋敷に住む妖怪のようなもの、なぜそれが生まれたのか、なぜそこに住む老夫婦にちかよってくるのか、そして、なぜそれと分かれねばならなくなるのか……非常にアンビバレントな、人が人らしく生活することの矛盾というか、を象徴している。

宮部みゆきの時代小説は、ホラーというほどではないが、化け物、妖怪めいたものが、よく登場する。しかし、ただ、恐ろしい恐怖の対象となるのではなく、どことなく人間によりそっていて、にくめないという性格を持っている。どことなくほんわかした雰囲気がただよっているのである。

それは、最初に書かれている「逃げ水」に出てくる、少女の姿をした妖怪にもいえる。

「百物語」という趣向で、時代小説を書き、摩訶不思議な物語を語るなかに、人の世の深淵を垣間見させる、まさに宮部みゆきの真骨頂というべきシリーズであると思う。時代小説という設定だからこそ語ることのできる、怪異譚である。

次は、三冊目『泣き童子』である。

『べっぴんさん』テニスラケットは自由の象徴か2017-01-19

2017-01-19 當山日出夫

NHKの朝ドラ、「べっぴんさん」は、一応毎日見ている。主にBSで朝早い放送を見る。「ごちそうそうん」の再放送につづけて、見ている。

べっぴんさん
http://www.nhk.or.jp/beppinsan/

最近、気になったことのひとつ。ドラマのなかでは、時間がすすみ、子供たちが大きくなって、その子供たちの成長をめぐって、今後の話しは展開するようである。その子供たちのなかのひとり、龍一(良子の子供)が、登場するときに、手にもっているテニスのラケットである。これは、いったい何なんだろうと思って見ている。

考えられることは、おそらく、自由の象徴である。

時代設定は、昭和30年代になっている。皇太子(現在の今上天皇)と皇太子妃(美智子さま)の子供(今の皇太子)の服を、会社(キアリス)であつかうことになったとあった。皇太子の結婚で思い出すのは、軽井沢でのテニス。そこでの出会いである。もちろん、これは、演出されたものであろう。だが、その当時の認識としては、テニスコートでの恋愛、ということで話題になったはずのことがらである。

あまりこの用語はつかいたくないが、強いて使えば、テニスのラケットは、自由、恋愛、を表象する「記号」であったのである。つまり、龍一がテニスラケットをもっているのは、当時の感覚としては、自由な恋愛を表象するものとして、ということになる。

この解釈であっているだろうか。しかし、こうとでも解釈しないと、何故、龍一がテニスラケットを持っているのか、理解できない。ドラマの中では、特にテニスに熱中するスポーツ少年ということでもなさそうである。いや、逆に、ジャズ喫茶(ヨーソロー)に出入りするようは、不良っぽい人物造形になっている。

このドラマ、あまり、その当時の世相とか、時代背景とかを描かない。ナレーションで語ることもない。もし、当時の、皇太子ご成婚、テニスコートでの出会いについて、言及することでもあれば、そうだろうと納得できるのであるけれど。

あまり自信はないが、ともかく一人の視聴者の解釈として書いておきたい。

『孤狼の血』柚月裕子2017-01-20

2017-01-20 當山日出夫

柚月裕子.『孤狼の血』.角川書店.2016
http://shoten.kadokawa.co.jp/sp/korou/

第69回の日本推理作家協会賞の受賞作である。だから、というわけでもないのだが、読んでみることにした。

警察小説である。

警察官を主人公にした作品は、それぞれの国によって、流儀というか傾向があるようだ。イギリスにはイギリスの、アメリカにはアメリカの、そして、日本には日本の。他には、近年では、北欧を舞台にした、ヘニング・マンケルの作などもある(残念ながら、作者は、もう故人となってしまった)。

日本の警察小説である。たぶん、佐々木譲あたりが代表的作家かと思う。最近に話題作では、『64』がある。

横山秀夫.『64』.文藝春秋.2012
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163818405

警察小説には、それぞれの国の流儀があると書いた。日本の警察小説の場合、かならずしも、警察官は、イコール、正義、というわけではないようだ。いや、それなりに、「正義」の立場にたって仕事をしているのであろう。だが、それは、時として、警察内部の抗争があったり、いや、むしろ、日本の警察小説は、警官を主人公とした、警察という「組織」を描いた小説とみるべきかもしれない。

そういえば、古くは、松本清張の作品、『点と線』なども、ある意味で、警察小説という趣がないではない。警察という組織のなかで、自分なりの「正義」を貫こうとする警察官の姿をそこに見ることができる。

この『孤狼の血』であるが、一言でいうならば、悪徳警官小説ということになるのだろう。暴力団の抗争事件をしずめるためには、なにがしか、相手の組織の内側にはいっていかざるをえない。そして、それは、同時に、警察という「組織」からは孤立することを意味している。まさに、タイトルのごとく、「孤狼」として生きざるをえない。

この『孤狼の血』、ただの悪徳警官小説で終わっているのではない。裏の筋書きがある。それが、最後に明かされるのであるが……この小説、時代設定は、昭和の末になっている。何故だろうかとと特に気にせずに読んでいくのだが、最後になって、この時代に設定してあったことの意味が明らかになる。この時代の事件として物語らなければ、『孤狼の血』という作品は成立しない。

日本における警察小説という領域でのすぐれた佳品であると読んだ。