『細雪』谷崎潤一郎(その一)2017-02-01

2017-02-01 當山日出夫

『細雪』を読んでいる。再読、再々読になるだろうか。

読んでいるのは、文庫本としては一番あたらしい角川文庫版(2016)。谷崎潤一郎は、中公文庫版で読むべきなのかもしれないが、古い中公文庫は字が小さい。老眼にはつらくなってきた。あるいは、新しい『谷崎潤一郎全集』(中央公論新社)で読むべきかもしれない。『細雪』ぐらいは、「全集」版で読んでおきたい気もする。

『細雪』、これは高校の国語の教科書に載っていたのを憶えている。花見の章である。芦屋に住む幸子たちが、京都に花見におとづれる。そのころ、私が住んでいたのは、京都の宇治市。だから、作中に出てくる桜の名所のいくつかは、実際に知っていたりもした。だが、小説に描かれた桜の方が、実際の桜よりも、美しく華麗であったような印象をもって憶えている。

やはり、桜という花は、「文学」というフィルターをとおして、描き出されるところに、その本当の美しさがあるような気がしてならない。『古今集』の昔から蓄積されてきた桜のイメージから、自由になることは難しい。いや、逆に、その中に身をおいてこそ、桜の花を観賞するということになるのかもしれない。

それから、映画。この作品、なんどか映画化されている。見た記憶に残っているのは、市川崑監督の作品。主演(雪子)が、吉永小百合であった。それから、末娘の妙子が、古手川祐子であったかと思う。

この映画の印象が強いせいか、今、『細雪』を再読してみても、映画の吉永小百合の印象が強くのこっていることに気付く。雪子が出てくる場面では、ついつい吉永小百合の姿を思い浮かべてしまう。

ところで、この映画で気になったこととして憶えていること。結局、雪子がとつぐことになる相手は、ある華族の子供である。原作では、庶子(嫡出子ではない)であったはずだが、映画では、次男(あるいは三男であったか)ということになっていた。まあ、原作の書かれた時代では、華族の庶子が相手でもいいようなものだろう。だが、映画(市川崑)の時代に、庶子では通じなかったと考えたのか、あるいは、どこかしら差別的な要素を避ける意図があったのか、このところは、わからない。映画を見ていて、あ、原作と変えているな、と感じて見たのを憶えている。

今読んでいるところは「中巻」のあたり。下巻にならないと、その相手は出てこない。順番に読んでいって、記憶を確認することにしよう。

追記 2017-02-02
この続きは、
やまもも書斎記 2017年2月2日
『細雪』谷崎潤一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/02/8347924

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