『おんな城主直虎』あれこれ「徳政令の行方」2017-04-11

2017-04-11 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年4月9日、第14回「徳政令の行方」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story14/

この前回は、
やまもも書斎記 2017年4月4日
『おんな城主直虎』あれこれ「城主はつらいよ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/04/8443437

ネコがもう出てこなくなった。ネコのはいっていた籠はあったが、ネコはいなかった。そのかわりに出てきたのが、カメ。亀が死んで、その生まれ変わりか・・・なんとも奇妙な印象の回であったが。

この回、見方によってはいろいろだろうと思う。

まず、ほめる立場で考えてみると……戦国の武将というものを、武力と知謀で生き抜くというイメージを、変えてみせたところだろう。大河ドラマの前作『真田丸』が、まさに、武力と知謀で乱世を生き抜く戦国武将を描いていた。それに対して、領地があり、そこにすむ領民がいて、それをどのように治めていくか苦心する。また、商人(貨幣)というものの存在が、重要なものになっている。このようなものとして、戦国武将を描いたというのは、ある意味で、画期的なことであったのかもしれない。

しかし、その反面、どうにも、話しの展開がドタバタしていて、わかりにくかった。戦国時代における、貨幣、商人というものの位置づけ、それから、寺社が、どのようなものであったかの説明、また、百姓の逃散ということの解釈、これらが、未消化のまま、一緒に放り込まれて、なんだかんだとあって、まあ、最後は、メデタシということで、直虎に領民がしたがうという決着。

たぶん、日本の中世の社会経済史をどう踏まえるか、それについて、どのような予備知識があるか、ということで、評価は変わってくるのかと思う。

それにしても、この回に出てきた百姓の描き方。これは、ちょっと気になる。

百姓=農民=米作

という図式のなかで描いてあった。これは、現在の歴史学の知見からすると、かなり疑ってかかるべきことのように思っているのだが、どうであろうか。

せっかく、方久という、商人……農業民、百姓でもないし、武士でもない……このような人物を登場させているのだから、もっといろんな中世の人びとの生活の有様を描くということがあってもいいように思う。

ちょっと気になったこと。

直虎が村に行って、農民の家を訪ねるシーン。紙をはった障子があったのだが、中世の農民の家に、紙の障子はないのではないか。

それから、神社で文書を書こうとするシーン(ここで亀がでてきたのだが)、床の上に紙があってそれに書いていた。しかし、紙に文字を書くのは机の上ではないだろうか。ここは、机が用意してあった方がよかったような気がする。

次回は、寿桂尼(浅丘ルリ子)との対決シーンか。楽しみに見ることにしよう。

追記 2017-04-18
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月18日
『おんな城主直虎』あれこれ「おんな城主対おんな大名」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/18/8491452

『楡家の人びと』北杜夫(その三)2017-04-12

2017-04-12 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月10日
『楡家の人びと』北杜夫(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/10/8453740

北杜夫.『楡家の人びと 第三部』(新潮文庫).新潮社.2011
http://www.shinchosha.co.jp/book/113159/

第三部は、戦争(太平洋戦争)の時代を描いている。

第二部のところで、昭和の初期、日中戦争の時代になる。そのおわりに、昭和16年12月8日の日米開戦のことが出てくる。

ここのあたりの描写が、日本の歩んできた「歴史」を、市民、国民、庶民の目で見ると、どのようなものであったのかが、描かれることになる。著者の意図は「歴史」を書くことにはなかったのかもしれないが、今日の視点から読んでみるならば、この作品に「昭和の歴史」を感じ取って読むということは、いたしかたのないことであろう。

いや、あるいは、これは、著者(北杜夫)が、少なからず意図していたことかもしれない。大正から昭和(前期)にかけての時代と、そのなかに生きた人びとの姿を書こうとしたことは、読み取れる。また、作中に、時間の流れとは何であるのか、について見解をのべた箇所もある。第二部、第四章のはじめの箇所。

このような、市民、国民、庶民の視点……著者のことばをつかうならば民草……で「歴史」を描いたものとしては、半藤一利の『B面昭和史』がある。

やまもも書斎記 2016年9月16日
半藤一利『B面昭和史 1926-1945』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/16/8191044

あるいは、戦争中の庶民の生活を描いたものとしては、こうの史代の『この世界の片隅に』がある。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

この『楡家の人びと』を、「歴史」それも「戦争」を描いた小説としてみるならば、次の三点が重要かと思う。

第一に、日中戦争の時代。どことなく暗い世相。しかし、まだ、世の中は比較的平穏であり、生活に余裕のあった時代。そして、中国を相手に戦争をするということに、どことなく不安感、あるいは、後ろめたさのようなものを感じていた時代。楡家の子ども達の箱根での別荘での夏休み、その学校生活など、次第にしのびよる戦争を感じさせるとはいえ、叙情的に、そして、ユーモアを交えて描かれる。これは、主に第二部にでてくる。

第二に、第三部になって、昭和16年に太平洋戦争となり、アメリカを相手に戦争をするとなる、新たな時代を迎えた、世の中が明るくなったと感じる感覚。これで、正々堂々と世界の中の日本として、生き抜く覚悟が生まれてきたような時代の感覚。これは、特に徹吉の感慨、かつてドイツに留学していた経験があることをふまえて、印象的な描写になっている。

ちなみに、このようなものとして、日米開戦を描いたものとしては、NHKの朝ドラでは、「おひさま」(2011年、岡田惠和脚本)があった。

第三に、アメリカと闘うことになって、生活に暗い影が本当にただよってくる時代。戦時下の苦労の多い生活である。日本での人びとのくらし、そして、空襲などの戦災。戦地におもむいたものには、戦闘だけではなく兵士としての日々の生活。

以上の、三点の「歴史」あるいは「時代についての感覚」として、この作品から読みとることができるだろうか。戦争を描くということは、戦地での戦闘をのみ描写するにとどまるものではない。それとともにある、人びとの毎日のくらしがどうであったか、それこそが重要なのである。

これらのことがらが、この作品では、楡家の登場人物たち……藍子、峻一、周二といった子どもたち、それから、米国(よねくに)、欧州の兄弟。楡病院長の徹吉の戦時下での仕事ぶり(病院の仕事と研究、執筆)……これらの様々なエピソードをおりまぜて、描き出される。そこに描かれているのは、銃後の日本の内地での生活(その苦労)だけではない、前線におくられた兵士の視点、海軍の奮闘ぶりと、その凋落、太平洋の孤島(ウエーク島)での生活、等など、実に多様な人物の多様な視点から、描き出される。

それは、強いていうならば、日本国民の物語、とでもいうことができようか。昭和の戦争という時代をどのようにして生きてきたのか、そこで何を感じたのか、それを総合的に、微細に、そして、大局的に、描き出す。

これは、狭義の「歴史」(いわば歴史学という学問)とはちょっと違う。ある共同体(それが想像されたものであるとしても)において、自分たちは、このような時代を生きてきたのだということを、過去をふりかえって確認し、そして、語りつたえていくべきものとしての「物語」である。

このところにおいて、「歴史」と「文学」は、限りなく近接したものになる。

民族は、国民は、市民は、自分たちの「物語」を必要とするのである。そして、それは、「文学」という形で表現されて、初めて納得のいくものになる。

いや、そうではない、歴史的事実の検証こそが、また歴史観こそが重用であるという、歴史学の立場からの反論はあるであろう。それは、そのとおりなのだが、ただ、歴史的事実を実証的に羅列しただけのものは、「歴史」として受け入れられるものにはならない。そこには、なにがしかの「物語」をともなうのである。それは、広義の歴史観といってもいいかもしれない。

歴史学の立場からの反論はあってよいと思う。あるべきである。だが、それは、すでにある「物語」を超えて、さらに新たなる「物語」をどう提示するのか、という作業であることも、一つの側面として、理解しておかなければならないと思う。

そうはいっても、この『楡家の人びと』の体験する戦争は、ちょっと変わっている。特に、米国(よねくに)の性格と描写は、滑稽ですらある。この作品が戦争を描いた作品として、ただ悲惨さのみを強調するようなものになっていない、どことなくユーモアを感じさせるものになっているのは、特に米国の存在によるところが大きいと思う。

そして、悲惨であるはずの戦争が、ユーモアを交えて、そして、ある場面ではきわめて叙情的に描き出される。この『楡家の人びと』は、類い希なる、「戦争の物語」「時代の物語」なのである。

追記 2017-04-13
このつづきは。
やまもも書斎記 2017年4月13日
『楡家の人びと』北杜夫(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/13/8468203

『楡家の人びと』北杜夫(その四)2017-04-13

2017-04-13 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月12日
『楡家の人びと』北杜夫(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/12/8460638

この作品は、近代の日本……そのなかでも、主に大正から昭和(戦前)までの時代……を描いた、ひとつ「物語」として受容されるものであることはすでに述べた。いわば、大河ドラマのような小説といってもいいかもしれない。

このような小説が他にないではない。古いところでは、『夜明け前』(島崎藤村)がそうであるかもしれない。また、私がこれも若いころに読んだ本として、『人間の運命』(芹沢光治良)も、そのような小説といえるだろう。

この『楡家の人びと』が、上述のような作品ときわだっているのは、そのユーモアにある、と私は思う。

著者(北杜夫)は、「どくとるマンボウ」のシリーズで、希なるユーモア作家としても知られていることは言うまでもない。そのユーモアのセンスが、この『楡家の人びと』には、全編にわたっている。

特に、「主人公」といってよい楡基一郎は、これ全身、生きたユーモアとでもいうべき人物造形になっている。その本人は、いたって生真面目で正直に行動しているのだが、それが傍目から見れば、どことなく滑稽みをおびているものとしてうつる。その基一郎を、実に自然に描き出しているところが、そして、それが、ユーモアを帯びているところが、この作品を通底するものとしてある。

このユーモアを一身に体現しているような人物が、次男の米国(よねくに)かもしれない。特に、第三部になって、戦争(太平洋戦争)がはじまって、世の中の情勢が不安になるなか、ひたすら、自分の病気のことばかりを延々と語る。その姿は、ユーモラスであると同時に、かえって鬼気迫るような感じもしないでもない。(本人は、いたって真面目で健康であるにもかかわらずである。)

また、この小説の最後のシーン、龍子の姿も、本人はいたって真剣に行動しているのだが、これも、ちょっと距離をおいてながめてみるならば、どことなくユーモアを感じる姿として、描かれている。

さらには、峻一のウエーク島での生活……その死と隣り合わせになった飢餓の状態を描いているところでも、どことなしか、ユーモアがある。峻一が必死になって生きようとすればするほど、それは、すでにそのような状態を過去のものと知っている……戦後の小説の読者の視点からすれば、ユーモアをもってながめることになる。そのように距離をもって、描かれている。

日本の近代文学の中で、諧謔、滑稽、ユーモア、という作品の系列がないではない。夏目漱石の『吾輩は猫である』などは、その代表といえるかもしれない。また、諧謔というものは、えてして、時の権力に対する風刺ともなりうる性質をもっている。

この諧謔、風刺による権力批判というのは、これはこれとして、重要なものであることはいうまでもない。

このような諧謔、ユーモアの系譜のなかにあって、『楡家の人びと』のユーモアは純粋である。権力に対する風刺というものが感じられない。これは、褒めているのである。ここまで自然なユーモアのある作品というのは、きわめて希なのではないだろうか。

私がこの小説を読んだのは、今か40年近く前のことになる。かなりの部分は憶えていた。にもかかわらず、今回、読み返してみて、思わず笑い出してしまった時が、幾度となくあった。自然に笑いをさそうのである。このような、いい意味での天然自然のユーモアにあふれた作品というのは、近代文学のなかでもきわめて貴重であるというべきであろう。

追記 2017-04-14
このつづきは。
やまもも書斎記 2017年4月14日
『楡家の人びと』北杜夫(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478445

『楡家の人びと』北杜夫(その五)2017-04-14

2017-04-14 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記
『楡家の人びと』北杜夫(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/13/8468203

この小説の重要な要素として、ユーモアがあることはすでに述べた。

それと関連して、この作品のもう一つの重要な要素である叙情性ということについて考えてみたい。

先に書いたように、この作品は、日本の近代(大正~昭和・戦前)を中心とした、市民、国民、庶民の物語である。だが、いたずらに、歴史談義にはいりこんで深刻になるということがまったくない。常に平明に叙述されている。

その平明な叙述、といっても、作品中では、まさにいろんな出来事、事件がおこるのであるが、その叙述のなかできわだっているのは、ユーモアと叙情性である。

この作品で、その叙情性をもっとも感じるところといえば、やはり、夏の箱根の別荘での、子どもたち(藍子、峻一、周二など)の様子の描写だろう。あるいは、そこでの夏の間の徹吉の勉強を加えてもいいかもしれない。

とにかく、清冽な叙情性に満ちた描写になっている。作品中で、このような箇所がでてくると、ちょっとほっとする感じがある。特に、時代背景としては、戦前の日中戦争はじまった、暗くなりかけている時期にあたる。その時代のなかにあって、おさなく、無邪気に、しかし、溌剌として、そして、どことなく、子どもらしい意地悪な、また、いじけたような、楡家の子どもたち。

いや、箱根の別荘に限らず、東京の青山の楡脳病院のあたりの情景の描写も、これまた、叙情性にとんだものである。

さらに書けば、太平洋の孤島で飢餓に苦しむ峻一の姿、その島(ウエーク島)の自然のなんとのびやかでおおらかなことか、とも思う。飢えさえなければ、太平洋の楽園である。

この作品では、こうした叙情性が、先にのべたユーモアと、密接に一体化して描写されている。そこが、この小説の見事なところだろう。

えてして、叙情的な文学は、それだけで自己完結してしまいがちである。だが、この作品は、そうなってはいない。抒情的に描きながらも、そこには、人びとの生活があり、また、戦争があり、また、死がある。これらを描きながらも、叙情性をうしなっていない、また、そしてユーモアもどことなくただよっている。このことをもってしても、『楡家の人びと』は、日本近現代においてすぐれた文学作品であるといえよう。

追記 2017-04-15
このつづきは。
やまもも書斎記 2017年4月15日
『楡家の人びと』北杜夫(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/15/8481451

『楡家の人びと』北杜夫(その六)2017-04-15

2017-04-15 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年4月14日
『楡家の人びと』北杜夫(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478445

北杜夫.『楡家の人びと』(新潮文庫).新潮社.2011 (1964.新潮社)

第一部
http://www.shinchosha.co.jp/book/113157/

第二部
http://www.shinchosha.co.jp/book/113158/

第三部
http://www.shinchosha.co.jp/book/113159/

たしか、東京にいて、大学院の学生のときだったろうか。ある先輩を介しての依頼で、次のような仕事をちょっとしたことがある……それは、日本の近代において、明治維新このかたどうして近代化が達成できたのか、また、戦後の日本は、敗戦からたちなおってどうして復興することができ、高度経済成長をなしとげることができたのか、その理由を考えるのに役立つような日本の近現代の文学作品を、外国(東南アジア)に翻訳して紹介したいので、その作品を選ぶ手伝いをしてほしい……ざっとこんなことだった。

それに対して私がいくつかの本を読んだなかで、推奨したのが、『楡家の人びと』(北杜夫)であった。他には、『青い山脈』(石坂洋次郎)とか、『暖簾』(山崎豊子)とかを、あげたのを憶えている。

もし、今、また、同じような依頼のようなものがあったとしても、たぶん、私は、『楡家の人びと』を推すことになると考える。それほど、この作品は、日本近代の……大正から昭和戦前にかけての……日本の国民の、市民の、庶民の、「物語」であるといってよい。日本が、大正時代のいわゆる大正デモクラシーの時代にどんな生活をおくっていたのか、その後、昭和になって日中戦争がはじまったときどんなふうに感じていたのか、またさらに、太平洋戦争でアメリカと闘っていたとき、戦地で、また、日本国内において、人びとはどのように暮らしていたのか……このようなことを、実にたくみに語りかけてくれる。

この小説を読むことによって、どのような時代の「物語」を日本人は持っているのか、それを感知することができるだろう。

無論、これには批判する立場もあってよい。これは、あくまでも、ある小説家の書いたものであって、実際の歴史はまた違うのである、と。それはそうなのだが、日本という人びとの共同体において、それを内側からささえる「物語」とは、なにかしら必然的に存在するものなのであるし、そして、それは、どんなものであるのか、批判的に検証される必要もある。

だが、それはそれとして、まずは、日本の人びとが、どのような「物語」のうえになりたっているのかが、理解されていなければならない。そのとっかかりとして、この小説は、見事にそれを提供してくれている。

外国の人が日本を理解するための手がかりとして、この小説が読まれてもいいのではないか、そのように、かつて私は思ったものであるし、今でも、同じように思っている。

と同時に、これからの若い人に、かつての日本の人びとは、どんなふうに生きてきたのか、文学を通じて理解を深めたい、そのような役割をも、この作品ははたすことができるだろう。

しかし、だからといって、この作品を全面的に支持するということでもない。あくまでも、とっかかりとして読んでおくことをすすめたい。

だが、そうはいっても、この作品は面白い。日本の近現代の文学のなかでも、突出して、ユーモアと抒情にみちた、それでいて、ある時代の様相をまざまざと描き出した小説なのである。純然と文学作品として読んでおく価値のあるものでもある。どんな理屈や評論よりもとにかく読んで面白い作品であること、これがもっとも大事なことである。現在、文庫本で読みやすい形で一般に出回るようになっていることは、私としては、喜ばしいことだと思っている。

追記 2017-05-03
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年5月3日
『楡家の人びと』北杜夫(その七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/03/8512351

やまもも書斎記 2017年4月26日
『楡家の人びと』北杜夫(新潮文庫)の解説
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/26/8500008

『ひよっこ』あれこれ「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」2017-04-16

2017-04-16 當山日出夫

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

『ひよっこ』第二週「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/02/

この週の見せ場は、赤坂の警察署でのシーンかなと思う。母(美代子)が、警察の担当者にむかって……探してくれといっているのは、疾走した出稼ぎ労働者ではないのです。奥茨城村で生まれ育った谷田部実という人を探して欲しいのですと……涙ながらに、懇願するところ。

昭和39年、東京オリンピックの開催となり、東京が活気づいていたときである。多くの出稼ぎ労働者がいて、そのなかには、失踪……土曜日には「蒸発」ということばあったと語っていたが……する人も、少なくなかった。なぜ、父はいなくなってしまったのか。大きな謎をかかえたまま、みね子たちの人生の歯車が動き出すことになる。

この週も、その時代を反映するネタがたくさんあった。クレージーキャッツ、インド人もびっくりのカレーのCM、そして、みね子が歌っていた「ひょっこりひょうたん島」の歌。

私の世代としては、これらのことはみな憶えていることになるのだが、なかでも、「ひょっこりひょうたん島」の歌の使い方が巧いと感じた。東京に行ったかもしれない母のことを思って、みね子が小声でくちずさむ「ひょっこりひょうたん島」の歌が印象的であった。これほど哀愁をこめた「ひょっこりひょうたん島」の歌はないのではなかろうか。

それから、小道具の使い方がたくみである。マッチ、それから、重箱。たぶん、このドラマの終わりの方になると、みね子たち一家が、宮本信子(鈴子)のレストランで食事をするシーンがあるのだろうと、明るい未来を想像してしてみる。

東京まで、夫の行方を捜しにきた母(美代子)は、旅館にもとまらず、上野駅の構内のベンチで、始発をまっていた。宿にとまるお金もない、ということでもないとは思うのだが、それにしても、駅でのシーンは切ない。

ところで、駅は、こちらの世界とあちらの世界をつなぐ境界のようなものだろう(近代社会というものを、民俗学的に考えてみるならば。かつての、古代、中世の時代の坂、川、橋のように。)そこで、東京の世界を代表する立場になるであろう宮本信子(鈴子)と語り合うというのは実に印象的である。駅という場所の設定が上手であると思う。

駅(上野駅)を通って、みね子たちは東京に出てくることになる。逆に、東京にいる宮本信子(鈴子)は、母(美代子)を追って、駅まではやってくる。そこで、両者がともに時をすごす。その境界の場所が、まさに「駅」なのである。

第二週まで見たところで感じるのは、村での、みね子たちの生活の描写。実に細やかに描いている。生活の実感を細やかに描くというのは、こういうのをいうのだと思う。これは、前作『べっぴんさん』が、日常生活のいとおしさを描こうとしていながら、それが、ナレーションで語られるだけで、ドラマとしては空疎なものであったことを考えると、今回の『ひよっこ』の方が、はるかによく作られている。

次週は、聖火リレーになるらしい。見ることにしよう。

『ブラタモリ』「祇園」2017-04-17

2017-04-17 當山日出夫

NHKの『ブラタモリ』、2017年4月15日は、「祇園」だった。

ブラタモリ
http://www.nhk.or.jp/buratamori/

祇園のぶらぶら足跡マップ
http://www.nhk.or.jp/buratamori/map/list70/index.html

さて、私の関心は、祇園の街の成立事情もさることながら、その表記にあった。

「祇園」の「祇」の字。以前のWindowsXPでは、「ネ氏」(しめすへん=ネ)であったものが、VISTA以降の機種では「示氏」(しめすへん=示)にかわった文字である。JISの規格でいうならば、「0208」と「0213」の違い、ということになる。

この祇園の表記については、かつて、訓点語学会や情報処理学会(CH研究会)などで、研究発表したことがあるし、いくつか論文も書いている。

コンピュータの機種によって文字の字体が変わってしまう漢字である。では、京都の祇園の街では、実際にはどちらが使われているであろうか、ということで、現地調査したものである。結論だけ書いておくならば、いわゆる伝統的花街の文字としては、「ネ氏」の方である。ただ、最近では、コンピュータ文字の影響をうけた、「示氏」の他に、誤字とされる「祗園」の表記もないではない。いや、これは、誤字というよりも、古くは江戸時代の浮世絵などにも事例を求めることができる、伝統的な漢字であるともいえる。

このような関心で、この番組をみて気のついたことは次の二点。

第一に、NHKの番組では、徹底的に「ネ氏」の方を使っていたということ。番組中の画面に表示される「祇園」の漢字は、すべて「ネ氏」の方であった。「示氏」は、まったく使われていなかった。

私は、この番組を、字幕表示で見ていたのだが、その字幕の漢字も、「ネ氏」の方を、つかっていた。ちょっとデザインがおかしいなと感じたのは、これは、わざわざ作字してつくったものとおぼしい。

なお、上記にリンクしてあるNHKの番組HPでの表記も、「ネ氏」の方になっている。

第二に、「花街」の読み方である。番組では、一貫して「かがい」と言っていた。「はなまち」とは言っていなかった。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)で、「はなまち」を検索すると、見出しとしてはあるが、用例はない。「かがい」の方は、狂歌・徳和歌後万載集(1785)が初出例としてある。

私の世代なら記憶にある歌。
「円山・花町・母の町」
作詞 神坂薫
作曲 浜圭介
唄 三善英史

http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=31656

https://www.youtube.com/watch?v=tIv4TbqzoqM


この歌のなかでは、はっきりと「はなまち」と言っている。

以上の二点が、『ブラタモリ』「祇園」の回を見ていて、国語学の観点から興味関心のあった点である。もちろん、花街としての祇園がどのようにできたか、という観点からも面白い番組であったことはいうまでもない。かつて四条通に面していた花街が、そこに市電を通すことによって、横においやられて今の祇園、特にその南側のエリアを構成することになったという経緯は、非常に興味深かった。

Windows10が出て、しばらくになる。もう、XPのコンピュータ文字を目にする機会はすくなくなった。それをふまえての、祇園の表記の再調査など、そろそろ計画しなければならないと思っている。

『おんな城主直虎』あれこれ「おんな城主対おんな大名」2017-04-18

2017-04-18 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年4月15日、第15回「おんな城主対おんな大名」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story15/

前回は、
やまもも書斎記 2017年4月11日
『おんな城主直虎』あれこれ「徳政令の行方」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457643

今回は、ヘビが出てきた。前回は、カメだった。

この回の見どころの一つが、冒頭の和尚との話の中ででてきた、……おなごだからといってバカにすることもなければ、また、手加減することもないであろう……の台詞かと思う。女性を主人公にした大河ドラマがかつて無かったわけではない。いくつか作られている。最近では、『花燃ゆ』『八重の桜』がある。面白かったかどうか、それは、女性を主人公にすることを、どのような視点で描くか、ということなると思う。この意味で、今回の『おんな城主直虎』は、女性だかといって軽く描くこともないし、特段、そのことを意識させる作りにもなっていない。いまのところは、たくみに描いていると感じる。

戦国時代でありながら、このドラマには合戦のシーンが出てくることがない。そのなかで、今回は、戦闘シーンがあった。これを見て、私の思ったこと……突然、木が倒れてきて、それから、斧がとんでくる……これは、まるで、『ワタリ』(白土三平)の世界である。この脚本を書いたか、あるいは、演出した人は、きっと『ワタリ』を読んでいたにちがいない、と感じた。

この回の最大の見せ場は、直虎と寿桂尼の対決シーンだろう。とにかく、浅丘ルリ子の貫禄がすごい。柴咲コウが、かすんでしまうかのようであった。

ともあれ、寿桂尼の判断……井伊の土地を領主として治めることができる、その実力と実績のあるもの(直虎)に任せることにしよう。この判断が、これからのこのドラマの軸になるものだろうと推測する。

井伊谷において、井伊の一族をどうまとめるか、と同時に、その土地の領民をどのように治めるか、そこに戦国時代の国衆としてのエトスがある、このように読みとることができようか。

次回は、綿の栽培がでてくるようだ。中世、戦国時代にあって、百姓=農民=米作、という図式をこえた、中世の社会経済の姿を、どのように描き出すか、興味深いところである。

ただ、今回までで不満な点をのべれば、龍潭寺という寺院の性格が、今ひとつ明かでない。おとわ(次郎)はここで出家をした。ただの井伊家の菩提寺ということでもないようだ。土地を寄進しており、そこは守護の権力もおよばないということらしい。また、直虎が駿府に赴くときには、そこの僧侶が、護衛として付き従っていた。このあたり、戦国時代、中世における、寺院の位置づけというものが、今ひとつ、明確なイメージとして伝わってこない。

方久という商人、それから、龍潭寺という寺院、これまでの戦国時代大河ドラマとは違った、中世社会のありさまを、どう描き出すか楽しみに見ることにしよう。

なお、今回は、もうネコは出てこなかった。

追記
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年4月25日
『おんな城主直虎』あれこれ「綿毛の案」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/25/8498866

『トニオ・クレエゲル』トオマス・マン(岩波文庫)2017-04-19

2017-04-19 當山日出夫

トオマス・マン.実吉捷郎訳.『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫).岩波書店).1952(2003.改版)
https://www.iwanami.co.jp/book/b247754.html

『魔の山』を読んだら、『楡家の人びと』が読みたくなって、その次には、『トニオ・クレエゲル』を、再び読んでみたくなった。探せば昔の岩波文庫版がどこかにあるかもしれないと思うのだが、これは新しく買って読むことにした。昔風の言い方をすれば、岩波文庫で★ひとつの本である。新しい本は、改版されてきれいな印刷になっている。読みやすい。

この作品のタイトルは、「トニオ・クレーゲル」ではなくて、「トニオ・クレエゲル」である。この訳者(実吉捷郎)の外国語の片仮名表記の方式として、長音「ー」は使わない主義のようだ。この翻訳のなかでも、たとえば「カフェエ」「スェエデン」などとある。

さて、『トニオ・クレエゲル』であるが、私が若いころ(学生のころ)に読んだ、岩波文庫★ひとつの本のなかでは、一番よく読み返しただろうか。その他には、『フォイエルバッハ論』などがあろうか。

とにかく、この作品の中に描かれた、「芸術」「文学」という世界に、心酔していたものである。そのような時期が、人生の若いころにあってもよいとおもう……今になって読み返してみて、強く感じる。あえてこうもいってみようか……若い時に、『トニオ・クレエゲル』に心酔したような経験のない人と、ともに芸術とか文学とかを語ろうとは思わない。

まあ、別にとりたてて『トニオ・クレエゲル』という作品をどうのこうのということではなく、そのような心性のあり方についてである。もう今では、文学作品に接して、芸術的感動をおぼえるなどは、すたれてしまったことなのかもしれない。文学青年などは、死語といってもよいであろう。

そして、30年、40年ぶりに、昔読んだ本を読み返してみて、もう、昔の若かったころのように、芸術の世界に心酔するということはない。しかし、その魅力、あるいは、芸術というものにこころひかれるというという心のあり方、それには、まだ私のこころはかたむくところがある。このように感じるというのも、年をとってしまったということなのであろうし、また、同時に、年をとっても、いや年をとったからこそ、若いころにもどって、同じとはいかないまでも、昔のような文学にこころひかれる日々をすごしたいと思う。

次に読もうとおもって買ってあるのは、『ブッデンブローク家の人びと』(岩波文庫)。これも若い時に手にした本。たしか、途中で挫折してしまったと憶えているのだが、これは、今回はきちんと読むことができるだろう。そのような読書の時間をつかいたいものである。

『純喫茶「一服堂』の四季』東川篤哉2017-04-20

2017-04-20 當山日出夫

東川篤哉.『純喫茶「一服堂」の四季』(講談社文庫).講談社.2017 (講談社.2014)
http://kodanshabunko.com/cafeippukudo/

この本のHPの紹介には、「ユーモア・カフェミステリ」とある。が、この作品は「本格」であると思って読んだ方がいいし、そして、損はない。

文庫本の解説を書いているのは、岡崎琢磨。これを読んで、「ビブリア古書堂の事件手帳」シリーズ(三上延)とか、「喫茶店タレーランの事件簿」シリーズ(岡崎琢磨)などの作品を、ライトミステリというらしい、ということを憶えた。まあ、私も、これらの作品は、一応読んではいるのだが。

しかし、この作品を「ビブリア」とか「タレーラン」のようなシリーズのものと一緒だと思ってはいけない。この作品では、人が死ぬ。起こる事件は、どれも殺人事件である。それもただの殺人ではない、猟奇殺人であり、密室殺人である。

短編集という体裁をとっているので、フーダニットではない。登場人物が限られるので、これははじめから無理。もう、この人物しか犯人はいないであろう、と推測される人間が犯人である。では、その犯人は、なぜ、どのようにして、その犯罪をなしとげたのか、ハウダニットとして読むことになる。

その推理の手順は、まさに「本格」である。そのトリックも、また、推理もあざやかである。なぜ、そのような死体の状況になっているのか、ということと、トリックが密接に関係している。まさに「本格」である。

そして、重要なことは、連作の四つの短編集という体裁をとりながら、全体として、別のトリックがしかけてあること(これ以上は書かない)。

東川篤哉は、そのデビューの時から、読んで来ている。そんなに全部の作品をというわけではないのだが、いくつかの主な作品は読んでいるつもりでいる。これは、これまでの作品からすると、別の独立したシリーズになるが、この続編はないだろうな、とも感じる作りになっている。

それにしても、猟奇殺人、死体切断、密室、よくもこれだけの短編集につめこんだものである。この短編ひとつで、横溝正史なら、長編を軽く書いてしまっているだろう。

他に読んでおきたい本がたまっているのだが、気晴らしにと思って手にした。が、これは、これで非常に上質のミステリに仕上がっている。上質のミステリを読んで時間をすごすほど贅沢はない。久々に充実した時間であった。