『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎2017-06-19

2017-06-19 當山日出夫(とうやまひでお)

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

日本の「近代」を考えるうえで、新書本として手頃な本が出たという気で読んでいる。個別的な議論や考証も重用だが、このように大所高所にたって、日本の近代を俯瞰的に考察するという仕事もあっていいと思う。

順番に読んでいってみようと思う。まずは「序章」から。

日本の近代が、西欧諸国をモデルとして構築されたものであること、また、そのきっかけになったのはアメリカによる開国の要求であった。そのアメリカも、また、英国から独立したという経緯がある。それをふまえて、

「現に幕末の日本で世界情勢に通じていた一部の知識人からは、米国は「攘夷」の成功的事例とさえ見られていましたし、非ヨーロッパ国家としてヨーロッパ的近代化の先行的事例を提供していたのです。」(p.3)

「日本の近代化の過程において、米国が日本に対して及ぼした独自の強い政治的文化的影響の歴史的根拠はそこにありました。」(p.3)

次に、「近代」を、ヨーロッパ、特に、英国において、どのようにとらえれていたかを、19世紀後半の英国のジャーナリスト、ウォルター・バジェットをたよりにして、考察していく。

バジェットによれば、「近代」とは、「議論による統治」であるという。

「バジェットはヨーロッパで生まれた「議論による統治」について、むしろ「前近代」と「近代」との連続性を強調し、時代を超えたヨーロッパの文明的一体性を意識的無意識的に前提としています。この点に関して、バジエットは世界における西と東との文明的断絶を強調しました。」(p.14)

このような認識をふまえて、日本は、特殊でもあり、また、ヨーロッパに似たところもあったという。

「法化された固定的な慣習によって拘束されることなしには、地域集団は真の民族となることはできません。また民族を存続させるものは、民族的同一性を保証するような慣習的規範の固定制であるからです。」(p.20)

また、次のようにもある、

「「議論による統治」の下での自由な議論は単に政治的自由のみならず、知的自由や芸術的自由の拡大をももたらします。」(p.27)

そして、この本では、

「バジェットの「近代」概念は、「議論による統治」を中心概念とし、「貿易」および「植民地化」を系概念とするものでした。これを通して、東アジアにおいては最初で独自の「議論による統治」を創出し、また東アジアにおいては最初で独自の「資本主義」を構築し、さらに東アジアにおける最初の(そしておそらく最後の)植民地帝国を出現させた日本の「近代」の意味を、以下の各章では問うていきます。」(p.31)

ということである。

以上のような立場に、私は全目的に賛同するというわけではない。バジェットの言っていることは、あくまでも英国におけるその時代の自己認識としてということとしなければならないと思う(この点については、著者も同様だろうと思う。ただ考察の手がかりとして便宜的にバジェットを用いてみたというところだろう)。が、ともあれ、この本は、読むにたえる本だと思うので、以下、各章ごとに読んでいきたいと思っている。

私は私なりに、自分が生きてきた「近代」という時代のことを考えてみたいのである。

追記 2017-06-22
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月22日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/22/8601974