『嵐が丘』E・ブロンテ2017-06-23

2017-06-23 當山日出夫(とうやまひでお)

E・ブロンテ.鴻巣友季子(訳).『嵐が丘』(新潮文庫).新潮社.2003
http://www.shinchosha.co.jp/book/209704/

この作品は、再読である。いや厳密には、新潮文庫の鴻巣友季子訳で再読ということになる。

以前、十年以上も前のことになるが、新潮文庫で、鴻巣友季子訳で出たのを読んだとき、はじめて『嵐が丘』を通読することができた。それまで、岩波文庫版(旧版、阿部知二訳)など、何度か読みかけて、そのつど挫折を繰り返してきた。それが、鴻巣友季子訳で読んで、意外なほどに、すんなりと全編をいっきに読み切ることができたという経緯がある。

ただ、この鴻巣友季子訳には、その訳文について、毀誉褒貶があるようだ。

だが、文学の魅力はその文体にある、ということを考えるならば、「語り」でなりたっているこの作品が、どのような文章で書かれるべきなのか、という観点からの、鑑賞の仕方もあっていいだろう。それが、たまたま私の場合、鴻巣友季子訳が、ちょうど趣味にあっていた、ということなのかもしれない。

今回、再読してみて(この本は、本棚で見つかったので、新しいのを買い直すという必要がなかった)、十数年前に読んだような、物語の中に没入していくような感動は、実は、あまり感じなかった。むしろ、物語の「語り」の構造とでもいうべきものがどうなっているのか、考えながら読んでしまったので、いまひとつ純然と、作品を味わうという感じではなかった。

しかし、そうはいっても、キャサリン(母)の死と、それに際してのヒースクリフの嘆き悲しみ……このあたりは、ついつい小説の中にひきずりこまれるようにして読んだ。

『嵐が丘』は、岩波文庫で新しい訳が出ている。また、光文社古典新訳文庫でもある。(ともに、買ってはある。)これらの別の訳でも、また、機会をみて、読み直してみたいと思っている。

ある意味で、この作品は、複雑で難解でもある。しかし、一面では、非常にシンプルな構造の物語であるとも、見なすことができる。

この作品は、二重の語りでなりたっている。まず、ロックウッドという人物が出てきて、語り始める。その相手となり、スラッシュクロス(鶫の辻)と嵐が丘の二つの屋敷の物語を語るのは、家政婦のネリーである。そして、ネリーは、単なる語り手であるだけではなく、主要な登場人物のひとりとして、その物語中で重要な役割をはたしている。

近代的な小説として、「神の視点」で描いているようにみせかけながら、その実際は、ほとんどが、登場人物の「語り」、主に、回想という形で語られる。それが、ただ、語るだけではなく、物語の進行していくなかに介入していく。このあたりが、物語の視点が錯綜してくる。また、登場人物が限定的とはいっても、その人間関係は、複雑でもある。さらに、そこに示される男女間の愛情は、ストレートであると同時に、屈折した形をとったものでもある。そこから感じ取ることができるものは、赤裸々な人間の魂の姿である、といってよいか。

一般的な文学史に記されるように、このような作品が、19世紀のはじめのころに、突如として現れ、ただ、ほとんどこの作品だけを残して作者は消えてしまった。これは、文学史的にいっても、奇跡的なできごとである。19世紀が、近代において小説という文学の形式の確立した時期であるとして、その作品が、21世紀になっても、なお読み継がれる価値があるとするならば、それこそ、文学の文学たるゆえんであろう。

私にとって、この作品は、文学を読むということの楽しみを感じさせてくれる……ただ文学史に名前があるというだけではなく……作品のひとつとしてある。もうすこし時間をおいて、再々度とさらに読み直してみたいと思っている。

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