『ひよっこ』あれこれ「谷田部みね子ワン、入ります」2017-06-11

2017-06-11 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第10週 「谷田部みね子ワン、入ります」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/10/

この週は、みね子が失業して(就職するはずの石鹸工場がひとりしか雇用しないことが判明)、すずふり亭をおとずれ、結局、そこ(すずふり亭)で就職することになる、という展開。ここでも、ヒロイン以外の脇役が重要な役割をはたしていた。

第一に、すずふり亭の就職の最終面接を、高子とすることにになるのだが、これまで、高子は、数々の就職希望者を落としてきた経歴がある。そのなりゆきに、鈴子以下、すずふり亭のみんなは心配していた。しかし、これは、以外とあっさりと決まってしまった。無事にみね子は、すずふり亭に就職できた。

この時の、高子のこれまでの面接の回想のシーンが、面白かった。短い時間ではあったが、ユニークなキャラクターがいかんなく発揮されていたと思う。

第二に、みね子が住むことになるアパート(あかね荘)の大家さん。立花富(白石加代子)。これが変わっているというか、貫禄があるというか。

そういえば、岡田惠和脚本では、「ちゅらさん」の一風館を思い出してしまう。ここの大家さんも、ドラマの展開に重要な役割をはたしていた。

第三に、愛子。これまでの週と同様に、みね子によりそう優しさにあふれていた。寮にいた女性たちが、無事に就職できるかどうか、みとどけるまで、寮に残っている。その愛子とみね子は、大晦日を夜を寮ですごす。

元日、愛子からのお年玉がある。故郷への切符であった。この場面、見ていて、『三丁目の夕日』の映画を思い浮かべた。映画では、堀北真希が、クリスマス・プレゼントに、故郷(青森)への切符をもらっていた。

以上、ざっと三人をあげてみたが、このドラマは、ヒロイン以外の登場人物を、個性的に描くところに特徴があるといっていいだろう。これから、舞台は、すずふり亭、それから、あかね荘に移ることになる。次週の予告を見ると、どうやらあかね荘の住人は、変わった人ばかりのようだ。(一風館の住人も、みんな変わっていたが。)

最後に、故郷でのお正月をすごして、再度、東京に出てきたみね子は、大きな荷物をもち、また、着ていたコートが新しくなっていた。それまでの赤い色のものから、茶色っぽいものに変わっていた。着るものが新しくなって、これから、東京での新しい生活がはじまる。

そして、最後(土曜日)に、みね子は、失踪した父のことに思いをはせていた。はたして、父の行方の手がかりはみつかるだろうか。楽しみに見ることにしよう。

『憲法サバイバル』森達也・白井聡2017-06-12

2017-06-12 當山日出夫(とうやまひでお)

ちくま新書編集部(編).『憲法サバイバル-「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談-』(ちくま新書).筑摩書房.2017
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069535/

白井聡については、このブログでも以前にとりあげたことがある。

やまもも書斎記 2016年6月25日
白井聡『戦後政治を終わらせる』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/25/8118252

この時の私の白井聡についての評価はきわめて低い。「永続敗戦論」というテーマはいいとしても、では、これから我々はどうすべきかとなったときに、精神力で頑張れ、としか言っていない。これは、何も言わないよりもたちが悪いとしかいいようがない。

この対談を読んでも、その印象が好転することはなかった。所詮、言っていることは、毒にも薬にもならないようなことである。

だが、そうはいっても読みながら、いくつか付箋をつけた箇所を見ておきたい。

(森)「象徴天皇制を採用するのであれば、人間宣言するべきではなかった。現人神のままでいれば象徴になり得たわけですが、人間ならば象徴になりえない。しかも戦後の天皇は実は人間以下のです。なぜならば憲法が規定する人権が保障されていない。選挙権もなければ職業や居住地を選択する自由すらない。」(p.174)

(白井)(天皇の退位表明の放送について)「天皇は、象徴の役割を果たすということについての自らの見解を具体的に語った。役割の基本は祈りです。つまりこの国が平安であれという祈りを捧げることと、傷ついた人たちを慰めることですね。」(p.207)

現在の憲法においては、天皇に人権が認められていないことについては、このブログでもすでにふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年8月12日
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』天皇は憲法の飛び地
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/12/8150156

もし、「人権」ということを本当に考えるならば、天皇の人権はいかにあるべきか、それとも、特殊に制限されるものなのか、もっとラディカルに考えるべきことになると思っている。

また、象徴天皇の役割を「祈り」とすることは、言われるまでもなく、すでに多くの国民が、自ずと納得していることだろうと思う。でなければ、天皇の被災地訪問などの行為が、歓迎されるはずもない。

また、白井聡は、このようにも言っている。

「私は天皇を論じるときは、明治以降の極めて近代的なシステムとしての天皇制を基本的にはとらえるべきだと思います。これは明治維新をやった革命家たちが、ものすごく人為的・人工的につくったものです。/その一方で、仮に天皇制が単にすごく底の浅い作り物だったとしたら、それがある時期「天皇陛下のために死ぬのは当たり前だ」というとてつもない国民動員装置になったことを説明できない。神道を考える際にも同じことが言えると思います。ここのバランス感覚はなかなか難しいんですね。」(pp.214-215)

この指摘はあたっていると思う。だが、であるならば、これからの天皇制はいかにあるべきか、そこのところをもっと掘り下げて論じるべきではないか。

それは、森達也の言う、

「僕も、メディアの責任は非常に大きいと思います。タブーに抗する存在であるべきメディアの方が、これまでのタブーの濃度を追い越すかたちで、自粛・忖度などといった領域を広げてしまっている。」(pp.211-212)

これをふまえるならば、まず、メディアの側にいる人間……森達也も白井聡も、どちらかといえば、メディアの側の人間だろう……が、責任をもって、これからの天皇のあり方について、きりこんでいくのでなければならない。

なお、この対談が行われたのは、2016年である。その後、今年(2017年)になって、今上天皇の退位をさだめた特例法が成立した。次の天皇は、平成にかわるどのような時代をになっていくことになるのか。自粛も忖度も無い議論がこれから必要になってくるのであろう。

以上、『憲法サバイバル』を4回にわけて、順番に読んでみた。結果として感想をのべれば、一番面白いのは、冨澤暉・伊勢崎賢治の対談、一案くだらないのは、上野千鶴子・佐高信の対談、ということになろうか。憲法改正ということが、具体的な政治課題となろうとしている今、この本は、読んでおく価値のある本だとは思う。九条について、また、象徴天皇制について、考えるべき論点は、まだまだ残されていると思うし、考えていかなければならないことだと思っている。

『おんな城主直虎』あれこれ「盗賊は二度仏を盗む」2017-06-13

2017-06-13 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年6月11日、第23回「盗賊は二度仏を盗む」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story23/

前回のは、
やまもも書斎記 2017年6月6日
『おんな城主直虎』あれこれ「虎と龍」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/06/8586630

あのネコは、夜は和尚と一緒に寝るのか。同じ部屋のなかで、籠にはいって寝ていた。

見どころはいろいろあったかと思うが、私の気になったところでは、

第一に、和尚が直虎に言ったことば。領主というものは頭を下げねばならないときもある、と。ただ、武断によってのみ領地を治めることはできない。まわりの戦国武将たちとの関係のなかで、自分のおかれた立場によって行動しなければならないということなのだろう。合戦場面の出てこない戦国時代ドラマとしては、直虎の生き方について、重要なことばだと思う。

第二に、仏像が盗まれたという「いいがかり」にどう対応したか。龍雲丸と和尚の計略、その場に居合わせた直虎たちの反応、このあたりも、うまく描いていたように思う。

今回のタイトル「盗賊は二度仏を盗む」は、「郵便配達夫は二度ベルを鳴らす」にちなんだものだと思うが、巧妙なタイトルであると思う。

第三に、政次の意図である。井伊のことを一番に思っているのは、直虎をのぞけば、あるいは、政次かもしれない。しかし、その思いをストレートに表現することはない。その立場(今川からの目付)から、屈折した行動をとることになる。

以上の三点ぐらいかなと思う。そして、龍雲丸であるが、やはり、武家に使える=侍になる、という選択肢は選ばなかった。侍になるかもしれないという可能性のギリギリのところで、翻意していた。

このところ、もし、井伊のもとで仕えるということになった場合、土地の領有はどうなるのだろうか。どこか所領を与えることになるのだろうか。そうではなく、龍雲丸たちは、その持っている技能によって仕え、銭を領主である井伊のイエからもらうということになるのだろうか。

つまり、土地の支配、領有、それの、安堵ということを媒介としない、封建的な主従関係というものが、どのようにあり得たのか、ということになる。

結局、ドラマでは、そのようには描かなかった。しかし、そのような可能性をはらんだ展開であったことは、見逃すべきことではないと思う。

さて、次回もまたネコは出てくるであろうか。そして、龍雲丸は再び登場することになるのであろうか。

追記 2017-06-20
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月20日
『おんな城主直虎』あれこれ「さよならだけが人生か?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/20/8600856

栗の花2017-06-14

2017-06-14 當山日出夫(とうやまひでお)

「栗花落」と書いて、「ついり」と読ませる。これは、先日、NHKの「日本人のおなまえっ!」を、たまたま見ていて知った。この回の放送は、いわゆる珍名というべきめずらしい名前の特集であった。

NHK 日本人のおなまえっ!
http://www4.nhk.or.jp/onamae/

栗の花が落ちるころに梅雨(つゆ)になる、ということなのであろう。熟字訓として、きれいな印象をあたえる名前である。(しかし、これは、そうと知らないと絶対に読めない名前である。なお、私のつかっているATOK2017は、「ついり」から「栗花落」に変換してくれた。)

その栗の花が、我が家でも咲いている。まだ、咲き始めの頃、花が開花したころ、などいくつか写真に撮ってみた。これは、ちょうど私が本をおいている小屋の裏手になる。秋になると実をつける。

本の整理とかとで、足繁く行くところであるが、裏手に回ってしげしげとその木を眺めるということは、これまであまりなかった。これからは、本を整理に持って行くときにでも、時々のぞいてみようかと思っている。自分の家にある樹木、花など、季節によって、その姿を変える。そのような季節のうつろいにふと目をとめるような生活がしたくなっている。

いま読んでいる小説は『ナナ』(ゾラ、新潮文庫版)である。ほかに『西行花伝』(辻邦生、新潮文庫版)も手をつけている。これは、再読。

栗の花


栗の花

栗の木

OLYMPUS E-3 ZUIKO DIGITAL 12-60

新しいカメラを買った2017-06-15

2017-06-15 當山日出夫(とうやまひでお)

新しいカメラを買った。

NikonのD7500である。

今までつかってきているのは、OLYMPUSのE-3。これももう古い機種になってしまった。カメラの進歩からいえば、二世代、三世代ぐらい前の機種になる。いや、もっと前になるかもしれない。

とはいえ、まだまだ十分につかえはする。ただ、バッテリーを充電するために取り替えると、そのたびに、カメラの内蔵の時計がリセットされてしまうようになってしまった。デジタル写真になってから、EXIF情報に、撮影日時が記録されることは、必須になってきている。これは、後から、写真を整理するときにも便利である。それが、具合が悪くなってきた。

それに、OLYMPUSは、フォーサーズのシステムを止めてしまった。もうこれの後継機は、出ない。E-5は買わずにある。その後の新機種が出るということはない。

デジタルカメラの進歩は早い。三年もたてば、かなり新しいのが出る。もうここいらで、乗り換えておくかという気になった。

Nikonにしたのは、昔、フィルムカメラの時代に使っていたのが、Nikonであったので、なじみがあるということからである。といって、昔のフィルムカメラのときに機材(レンズなど)が、使えるというわけではない。DXフォーマットのデジタル専用機になる。これは、割り切って考えるしかない。

先日、出たばかりの時点で注文して、とどいた。手にした感触としては、軽いなあ、ということ。OLYMPUSよりも、軽量につくってある。といっても、デジタル一眼レフとしては、それなりの重さがあり、かさばる。

レンズは、レンズキットになる18-120ではなく、16-80をつけることにした。これから先、広角レンズを買い足すことは無いだろうと思っているので、ワイド側があった方がいい。それに、明るいのがいい。

花の写真など撮ることが多い。身の周りの季節の移り変わり、ふと目にとまった花の風情など、写し取ることができたらと思っている。

ここしばらくは、古いOLYMPUSと、新しいNikonと、両方つかいながら、徐々に、Nikonの機材を増やしていきたいと思っている。接写用のマイクロレンズなどが、さしあたって欲しいところである。

まあ、はっきりいってしまえば、老眼になってきたので、小型のミラーレス機などは、使いづらい。背面モニターを見ながら写すことができない。近眼で、老眼である。視度調節機能つきの光学ファインダー、それから、オートフォーカス機能をつかっての、フォーカスエイド撮影、ということになる。

機材をかついで遠出することもない。せいぜい家の近隣を散歩するときに、もちあるく程度である。今のところ、そう負担に感じる重さ、大きさ、ということではない。

それにしても、デジタルカメラの時代になって、とにかくマニュアルを読まないと使えないようになるのは困る。マニュアルを読むために、いちいち眼鏡をはずさないと字が読めない。しかも、いろんな機能がついている。とりあえずは、マニュアル撮影(ピント、露出)をどうするか、というあたりを理解するようにして、読んでいる。

RAWでも画像データが残せるので、自分で現像処理してもいいのだが、それに凝り出すときりがないので、どうしようかと考えているところでもある。

今は、新しいカメラの機能をためしながら、身の周りの花や樹木の写真など、撮っていきたいと思っている。

『ボヴァリー夫人』フローベール2017-06-16

2017-06-16 當山日出夫(とうやまひでお)

ギュスターヴ・フローベール.芳川泰久(訳).『ボヴァリー夫人』(新潮文庫).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/208502/

この本、いつものことだが、まず解説から読んだ。解説によると、フランス近代小説の傑作とのこと……なのであるが、私の読後感としては、あんまり感動しなかった。いや、つまらない小説という意味ではない。主人公に、今ひとつ感情移入して読むことができなかった。

訳のせいだろうか、あるいは、私が年を取り過ぎてしまったせいなのかもしれないと思ったりもする。もっと若くてみずみずしい感受性を持っている時期でないと、この作品に感動することはないのかとも思ったりした。

この作品については、近年、次の本が出ていることは知っている。

蓮實重彦.『『ボヴァリー夫人』論』.筑摩書房.2014
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480838131/

たぶん、フランス文学において、この作品の読解、理解、ということは、今でも、重要な研究テーマになっているのであろう、ということは理解される。また、新潮文庫の解説でも、文学史的な価値については、強く言及してある。

私が学生の時、履修(第二外国語)したのは、フランス語だった。その時、教科書に乗っている例文について、これは『ボヴァリー夫人』にあるものです、という意味のことを、先生が言っていたのを今でも憶えている。初級の入門の教科書である。それでも、『ボヴァリー夫人』のフランス語というのは、教科書の例文にするだけの、ある意味で価値のあるものだったのだろう。

仏文、フランス語の方向には進まなかったので、私のフランス語についての知識は、学部の教養課程どまりである。読むとすれば、日本語訳を読むことになる。その日本語訳の新しい版が、新潮文庫版である。

この小説、実は、これまで読まずにいた。19世紀のフランス自然主義文学といわれただけで、なんとなく分かったような気分になってしまうところがあった。だが、この小説も読んでおくべきと思って読んでみた次第。

そうはいっても、今の私の読解力、感性では、この作品を味読するということはできなかったようである。これは、もうちょっと時間をおいて、もっと時間の余裕のある時に、じっくりと再読してみたいと思っている。

ともあれ、この本を読んだことの記録として、まずはここに書き留めておきたい。

追記 2017-06-17
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月17日
『ボヴァリー夫人』フローベール(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/17/8598841

『ボヴァリー夫人』フローベール(その二)2017-06-17

2017-06-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2016年6月16日
『ボヴァリー夫人』フローベール
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/16/8598263

ギュスターヴ・フローベール.芳川泰久(訳).『ボヴァリー夫人』(新潮文庫).新潮社.2015
http://www.shinchosha.co.jp/book/208502/

この文庫本の解説を読むと、翻訳に苦労したらしい。特に、原文に忠実に訳したとある。句読点まで、可能な限り原文通りにしたとも。

それから、特に意図して訳したのが、「自由間接話法」であるという。

その説明の箇所を少し解説から引用すると、

「語り手が視点だけを随意に移動させ、作中人物の至近にはりつける、と思ってもらえればこの話法が理解しやすくなるかもしれません。」(p.653)

またこうもある、

「これを移動しないと、語り手によるいわゆる「神の視点」からの描写になってしまいます。「神の視点」とは、たとえば壁があって見えないはずのところにいる作中人物でも、語り手にはすべて見えてしまっているように語る場合ですが、フローベールは、そうした描き方はしません。」(p.653)

「しかしフローベールは、語り手に属しながらそこから自由に移動できる視点を発明したのです。それを、自由間接話法の多用で成し遂げたのです。」(p.655)

「ここには、客観描写をめぐるコペルニクス的転回があるのです。」(p.658)

このような解説を読むと、作者(フローベール)は、『ボヴァリー夫人』において、ものすごいことを成し遂げたように思える。そして、この文庫本の解説は、これはこれとして興味深いものなのであるが……はたして、それが、実際の翻訳でどれだけ、日本語として、読者につたわるか、これは難しいものがあると感じる。

私は、この解説を最初に読んでから、そのつもりで、翻訳を読んだのであるが、はっきりいって、分からなかった。たぶん、この小説を何度も読んで、ストーリーを追うだけではなく、じっくりと文章を味読するような読み方をすれば、感じ取ることができるのかもしれない。

この意味で、もうちょっと時間をおいてから、再度、この小説を読み直してみたいと思っている。いま、ゾラの作品など読んでいる。19世紀フランスの自然主義文学の代表作を一通り読んで、また、ここに立ち返ってみることにしたい。

なお、ここで出てきた「自由間接話法」ということば、これは、『風と共に去りぬ』の解説にも、指摘されていたことである。新潮文庫版(鴻巣友季子訳)も、また、岩波文庫版(荒このみ訳)も、とも、「自由間接話法」に、解説で言及していたと記憶している。

さらに余計なことを考えてみれば、西欧の文学には、まず「神の視点」からの描写ということがあるのだろう。だから、そこに、ふと登場人物の視点を取り込む「自由間接話法」が、意味がある。逆に「神の視点」をもたない日本の物語文学、例えば『源氏物語』のような場合、女房の語りの視点のなかに、「神の視点」に移行するところがある、こんなふうに考えてみることもできるかもしれない。小説、物語の、語りの視点という意味では、「自由間接話法」ということについて知っておくことは、意味のあることであると思う次第である。

『ひよっこ』あれこれ「あかね荘にようこそ!」2017-06-18

2017-06-18 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/

第11週 あかね荘にようこそ!
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/11/

この週から、本格的にみね子が、すずふり亭で働き始める。このドラマをみていて感じることは、「普通」に「労働」することの意味である。

奥茨城での農家の生活。ドラマでは、特に稲刈りのシーンが印象的に描かれていた。それから、事情(父親の失踪)があっての東京での集団就職。向島電機でのトランジスタラジオの製造と、寮生活。そして、失業、転職ということで、すずふり亭でのホール係。

これら、特に際立った仕事をしているというわけではない。おそらく、昭和40年頃の、地方の、東京の、ごく「普通」の生活を描いている。それが、見ていると、しみじみと感じるものがある。それは、「普通」に「労働」するということの意味を、このドラマは、改めて問いかけているからだろうと思う。

多少の改善はあるかもしれないが、近年の日本の労働環境は厳しい。ブラック企業の話題にはことかかない。過労死などのニュースも珍しいものではない。

すずふり亭の店主(鈴子、宮本信子)は言っていた。仕事のことは仕事の時間内でおわらせる、家にもちかえってはいけない、と。働くときは働くが、休むべきときは、休めばよい。

当たり前のことである。だが、その当たり前のこと、「普通」のことが難しくなってきているのが、21世紀になっての日本の現状である。かつての1960年代、高度経済成長期の日本、まだ社会全体としては貧しかったかもしれないが、「普通」の人間が「普通」に「生活」し「労働」する、この「普通」が生きていた時代であったともいえよう。

この「普通」の暮らしの尊さというべきものを、このドラマは、特に何か大事業をなすというでもないヒロインを通じて描いている。ここが、この『ひよっこ』の良さなのだと、私は思って見ている。

また、その一方で、以前に出てきたような、父親の東京での出稼ぎ生活というものがあった。今からみれば、過酷な労働環境である。そのような環境で働いていた人たちがいたことも、忘れてはいけないだろう。

金曜日の放送で出てきた、省吾(シェフ)の戦争時の回想。1960年代、まだ戦後が完全に終わったという時代ではない。人びとの記憶のなかには、戦争のときのことがまだ、各人各様に残っている。これは、乙女寮の愛子(舎監)にもいえたことでもある。

そして、「普通」の「生活」を描くといっても、みね子の住んでいるあかね荘は変わった人ばかりのようである。だが、悪い人はいないようだ。なかでも一番変わっているのが、大家さん(白石加代子)である。

次週は、何か事件がおこるようである。楽しみに見ることにしよう。

『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎2017-06-19

2017-06-19 當山日出夫(とうやまひでお)

三谷太一郎.『日本の近代とは何であったか-問題史的考察-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b283083.html

日本の「近代」を考えるうえで、新書本として手頃な本が出たという気で読んでいる。個別的な議論や考証も重用だが、このように大所高所にたって、日本の近代を俯瞰的に考察するという仕事もあっていいと思う。

順番に読んでいってみようと思う。まずは「序章」から。

日本の近代が、西欧諸国をモデルとして構築されたものであること、また、そのきっかけになったのはアメリカによる開国の要求であった。そのアメリカも、また、英国から独立したという経緯がある。それをふまえて、

「現に幕末の日本で世界情勢に通じていた一部の知識人からは、米国は「攘夷」の成功的事例とさえ見られていましたし、非ヨーロッパ国家としてヨーロッパ的近代化の先行的事例を提供していたのです。」(p.3)

「日本の近代化の過程において、米国が日本に対して及ぼした独自の強い政治的文化的影響の歴史的根拠はそこにありました。」(p.3)

次に、「近代」を、ヨーロッパ、特に、英国において、どのようにとらえれていたかを、19世紀後半の英国のジャーナリスト、ウォルター・バジェットをたよりにして、考察していく。

バジェットによれば、「近代」とは、「議論による統治」であるという。

「バジェットはヨーロッパで生まれた「議論による統治」について、むしろ「前近代」と「近代」との連続性を強調し、時代を超えたヨーロッパの文明的一体性を意識的無意識的に前提としています。この点に関して、バジエットは世界における西と東との文明的断絶を強調しました。」(p.14)

このような認識をふまえて、日本は、特殊でもあり、また、ヨーロッパに似たところもあったという。

「法化された固定的な慣習によって拘束されることなしには、地域集団は真の民族となることはできません。また民族を存続させるものは、民族的同一性を保証するような慣習的規範の固定制であるからです。」(p.20)

また、次のようにもある、

「「議論による統治」の下での自由な議論は単に政治的自由のみならず、知的自由や芸術的自由の拡大をももたらします。」(p.27)

そして、この本では、

「バジェットの「近代」概念は、「議論による統治」を中心概念とし、「貿易」および「植民地化」を系概念とするものでした。これを通して、東アジアにおいては最初で独自の「議論による統治」を創出し、また東アジアにおいては最初で独自の「資本主義」を構築し、さらに東アジアにおける最初の(そしておそらく最後の)植民地帝国を出現させた日本の「近代」の意味を、以下の各章では問うていきます。」(p.31)

ということである。

以上のような立場に、私は全目的に賛同するというわけではない。バジェットの言っていることは、あくまでも英国におけるその時代の自己認識としてということとしなければならないと思う(この点については、著者も同様だろうと思う。ただ考察の手がかりとして便宜的にバジェットを用いてみたというところだろう)。が、ともあれ、この本は、読むにたえる本だと思うので、以下、各章ごとに読んでいきたいと思っている。

私は私なりに、自分が生きてきた「近代」という時代のことを考えてみたいのである。

追記 2017-06-22
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月22日
『日本の近代とは何であったか』三谷太一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/22/8601974

『おんな城主直虎』あれこれ「さよならだけが人生か?」2017-06-20

2017-06-20 當山日出夫(とうやまひでお)

前回は、
やまもも書斎記 2017年6月13日
『おんな城主直虎』あれこれ「盗賊は二度仏を盗む」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/13/8593116

『おんな城主直虎』2017年6月18日、第24回「さよならだけが人生か?」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story24/

今回のネコは、和尚とじゃれていた。いや、ネコの方はその気はないのだが、和尚の方から一方的に、ネコにじゃれついていたという感じか。いいネコであると思う。

この回では、最初、ちょっとだけ、前回のラストのおさらいシーンがあった。なぜ、龍雲丸は直虎に仕えることを止めにしたのか。それは、たぶん今のことばでいえば「自由」ということになるのだろう。だが、中世、戦国時代の日本語に「自由」ということば、概念はないだろう。

その「自由」というのが、実は、この戦国ドラマの重要なポイントではないかと思えてくる。直虎は無論のこと、周辺の登場人物は、みな、何かしらの束縛のなかで生きている。それは、「忠義」ということかもしれない。確かに「忠義」は貴いであろう。だが、「忠義」の中にしか生きられない、「忠義」をエトスとする人びとの対極に、それに縛られない「自由」な生き方を選んでいる龍雲丸のような存在がある。

「忠義」の中にしか生きるすべを知らない登場人物として、侍女のたけがいたことになる。たけとくらべるとき、龍雲丸の「自由」がひときわその存在感のあるものとしてある。

それから、この回で、織田信長が出てきた。どうだろうか……おそらく、これまでのNHK大河ドラマで登場した数々の信長のなかで、きわだって異様なオーラを持つ人物として描かれていたのではなかろうか。これで、今川の他に、徳川家康、そして、織田信長と、戦国時代のドラマの主人公がそろった感じがする。今後、この信長が、ドラマの展開にどうかかわってくるのか、楽しみである。

信長が出てきて、いよいよ「天下」をめぐって大名たちの争いが佳境に入ることになる。では、そのおおきな流れのなかで井伊のイエは、どのようにして生きていくことになるのであろうか。(ただ、現在のわれわれは、その結果を知ってはいるのだが。)

さて、次回も和尚とネコは出てくるだろうか。

追記 2017-06-27
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年6月27日
『おんな城主直虎』あれこれ「材木を抱いて飛べ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/06/27/8605216