『夏目漱石と西田幾多郎』小林敏明2017-07-07

2017-07-07 當山日出夫(とうやまひでお)

小林敏明.『夏目漱石と西田幾多郎-共鳴する明治の精神-』(岩波新書).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b287528.html

この本は、比較的おもしろく読んだ。

私が西田幾多郎を読んだのは、いつのころになるだろうか。たしか、高校生のころ『善の研究』を岩波文庫版で読んでみた経験はある。当然のことながら、さっぱりわからなかった。しかし、それでも、哲学というものへの畏敬の念はいまだにもっている。

漱石の方は、中学・高校の時から読んできている。その当時出た、岩波版の「全集」を買って読んだ。そのうちでも、『猫』は、もっとも多く読み返しただろうか。その後、数年おきぐらいには、その主な作品、特に『三四郎』以降の長編小説は、まとめて読み直すようにしてきている。

ところで、この『夏目漱石と西田幾多郎』である。ほぼ同じ時代に生まれた二人について、その評伝的記述を交錯させながら、そこに接点を見いだしていこうというようなこころみ、とでもみればいいだろうか。サブタイトル「共鳴する明治の精神」が、この本の内容をよく表している。

といって、二人の人生がそんなに深く交わっているということはない。しかし、同じ時代に生きた人間として、また、家庭環境に共通するようなところもあり、二人には共通するところもあるという。その弟子たちのとの関係をめぐっては、

「フロイトによれば、子供(息子)は父親という畏敬すべき「権威」を自分の中に取り入れることによって、無意識裡に自分を統御する「超自我」を形成するという。それが精神分析の考えるモラルの起源である。その意味で漱石や西田の弟子たちが自分たちの理想とした師が「父性」を帯びるのは不思議ではない。それは師の側にいえることで、彼らもまた知ってか知らずか「権威」としての「父」を演じるようになるのである。」(p.151)

このようなあたりが、二人の生き方において共通する要素とでもなろうか。

また、このような指摘もある。

「漱石と西田が追求した孤独な思索、一言でいってしまえば、それは内省である。ひとり自分の内面世界にとどまって、ひたすら自分の想念をめぐらす作業である。」(p.214)

このような観点にたって、漱石の、特に『それから』以降の心理小説を、内省の文学ととらえてある。さらに、

(藤村操にふれた後)「これは当時の明治の青年たちの間に広がっていたロマン主義の風潮のなせる業で、漱石も西田もこれと同じ空気を多分に呼吸していたということである。こういう目で漱石の内省的な作品を眺めてみると、いずれも男女間の愛がテーマになっていることに気づくだろう。」

この本は、漱石論としても、西田幾多郎論としても、たぶん、両方の観点から読んで、それなりに面白い着眼点があるにちがいない。私は、どちらかといえば、「文学」の側の人間になるので、漱石の作品論、評伝のようなものとして、読むことになったが。

次のような指摘は興味深かった。

(漱石の心理小説について)「正宗白鳥の辛辣な批判を受けたのだったが、それから一世紀を過ぎた今日、漱石の作品だけが残って、白鳥の批判がまったく忘れ去られたのはなぜか。これは白鳥の批評がまちがっていたということではない。そうではなく、時代が漱石の方に流れたということである。当時は白鳥の方にリアリティがあったであろう。しかし、今は圧倒的に漱石の方にリアリティが移っているということだ。」(pp.203-204)

「われわれ今日の読者が、たとえば『こころ』を読んでも、言語的にはほとんど違和感がない。しかし、そのことをもって、漱石も現代語を書くことができたと考えるのは倒錯である。なぜなら、漱石たちこそが、そのような「新しい日本語」を創り出した当人なのだから。」(p.226)

『こころ』は、今の日本の中学生、高校生でも読める。それは、その延長線上に、現代の日本語、日本文学があるということでもある。この意味では、今後も、漱石の作品は、読み継がれていくことになるであろう。