『西行花伝』辻邦生(その二)2017-07-10

2017-07-10 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

辻邦生.『西行花伝』(新潮文庫).新潮社.1999(2011.改版)(新潮社.1995)
http://www.shinchosha.co.jp/book/106810/

読みながら付箋をつけた箇所をすこし引用しておきたい。

「でも、ひとりで虚空に立つ人に対して、その一切を変成し、虚空が暖かな香わしい親愛の庭となり、そこに全身を軽々と豊かに横たえられるとしたら、まさにそのような変成こそが歌によって行われなければならなかったのでございます。」(p.142)

「西住よ。私はようやく紀ノ川のほとりで眺めた浮島のようなこの世を、迷いなく、ひしと心に抱くことができる。この世はもともとただそれだけのものにすぎぬ。味もなければ、芸もないのだ。それが浮島とみえ、虚空のはかなさに包まれると見えたとき、好きものに満ちていることが解るのだ。運命の興亡も、季節のめぐりも、花鳥風月の現れも、何か激しく心を物狂おしくする好きものなのだ。私は、ただそれを物狂おしいまでに好くために、こうし草庵のなかに坐しているのである。」(p.264)

このような虚無……虚空……のなかに毅然として、自分のたつよりどころを見いだす。それを、芸術のうちに、美のなかに、見いだす。このような発想、一種の芸術至上主義といってもいいのかもしれないが、しかし、えてしてニヒリズムのなかに逃げ込んでしまいそうな、現代の我々の世の中にあって、このように、きっぱりと言い切る芸術、美への信頼は、いっそのことすがすがしくある。

辻邦生という作家は、これからも読まれていく作家にちがいないだろうが、それは、上述のような、芸術、美への確信的な信頼を吐露したところにおいてであろうと思う。

芸術至上主義と言ってみたが、決して耽美的ではない。豊かな感性を背後にもちながらも、どこか理性的な判断がそこにはある。知的な芸術至上主義……耽美的なに対して……といってよいかもしれない。

さて、このような辻邦生の作品で、今、新潮文庫で読めるのは『安土往還記』がある。これも読んでみたい。若いときに何度か読み返した本である。

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