『居酒屋』ゾラ(その三)2017-07-17

2017-07-17 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
『居酒屋』ゾラ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/15/8620613

ゾラ.古賀照一(訳).『居酒屋』(新潮文庫).新潮社.1970(2006.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/211603/

この小説を読みながら付箋をつけた箇所。

「みんなは台帳にしがみついて署名したが、その字たるや跛で太かった。新郎だけは字が書けぬために十字架を一つ書いた。」(p.118)

「とりわけブリキ屋が回復期間に字を習うのを断ったこと、彼女はこれが我慢ならなかった。」(p.213)

何故、このような箇所に付箋をつけたか。それは、作者(ゾラ)がその小説を書いて、その中の登場人物が、必ずしも字が読めるとは限らないという設定にしていることである。さらにいうならば、ゾラは、自分が書いた小説を、この登場人物たちは読むというようなことを想定していないことになる。

これが日本文学だとどうだろう。例えば、近代の漱石の作品。『猫』などは、その作中人物が字が読めないということはないようである。また『三四郎』以下の諸作品については、漱石は、その読者層として、自分と同程度のリテラシがあると想定して書いたとおぼしい。

近代文学を専門にしているということではないので、近代文学作品のなかのリテラシがどのように記述されているかは不案内である。しかし、小説を書いて発表したとき、その小説がどのような人たちに読まれると想定して書いたのか、また、その中の登場人物が小説を読むような人間として描かれているのか、この点は、きわめて興味深い論点になるだろうとは思っている。

あるいはこのようにいうこともできようか、もし日本近代文学が「文壇」というようなもののなかに閉じこもっている、あるいは、その周辺に位置するものとしてあるならば、社会の人びとのリテラシというのは、視野の外にあることになってしまう。日本近代文学を考えるうえで、重要なポイントになるのではなかろうか。