『文章読本』中村真一郎(その二)2017-08-26

2017-08-26 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年8月25日
『文章読本』中村真一郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/25/8655979

読みながら付箋をつけた箇所を引用しておきたい。

「私たちは現在では文章というものは、口語文しか持っていないので、普通は口語文でものを考えるわけで、だから、現在の口語文が、私たちの考えたいこと、感じたいことのすべてを表現する能力があれば、そうした検討は必要はないわけですが、実際には日本近代の発明にかかる口語文は、まだ私たちの精神生活のすべてを覆うところまで、充分には発展しきっていないのではないでしょうか。」(p.40)

「だから、私たちの考え方や感じ方そのものも、明治以来の口語文を読むことを通して、自分たちのなかに育て上げて来た以上、彼等にその道が作られたのだ、と云うこともできます。/〈口語文〉というものの発明は、だから単なる文章の問題ではなく、私たち日本人の現在の生活あらゆる方面に、深い関係を持っているということになります。」(pp.48-49)〈 〉原文傍点

このように、近代の口語文の歴史と、それにあわせた日本人の考え方、感じ方の問題を重ねて論じてある。この視点は、重要であると私は思う。単なる文章史でもないし、文学史でもない。文章の歴史を考えることによって、考え方、感じ方の歴史がそこにあることを見ていこうとしている。

著者(中村真一郎)の言うとおり、現在の日本語は、口語文しかないといってよい。その口語文で、自在に、考えること、感じることができているかどうか、ここは、時としてたちどまって考えてみてもよいように思う。自分が考えよう、感じようとした時、それを表現する日本語の文章がどのようなものであるか、このことに無自覚であってはならない。

今、自分が文章を書いている日本語の文章、その文体もまた歴史的に構成されてきたものであることをわすれてはならない。この観点からの、現代日本語についての論考が必要になってきている。狭義の日本語学の枠から拡大して、文学のみならず、さらに、思想、宗教、芸術といった諸々の領域にまたがって、現代の、近代の日本語とのかかわりが、考察される必要があるだろう。

また、中村真一郎が、現代の、近代の日本語について、上記のような認識をもっていたということは、『頼山陽とその時代』など、近世の漢詩文を論ずるときに、忘れてはならないことでもある。私が『頼山陽とその時代』について書くに先立って、『文章読本』を読んだゆえんでもある。

追記 2017-08-31
この続きは、
やまもも書斎記 2017年8月31日
『文章読本』中村真一郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/31/8662778