『ひよっこ』におけるリテラシ(その二)2017-08-28

2017-08-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『ひよっこ』については、毎週書いているが、それとは別につづきである。

やまもも書斎記 2017年8月11日
『ひよっこ』におけるリテラシ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/11/8644303

みね子は放送局に出前に行って川本世津子と再会する。このシーンが印象的であった。

この場面、回想シーンで、世津子からの手紙も映っていた。平仮名が多い文面である。みね子も、そのことには気付いていたようだ。

ドラマの中では、人気女優という設定の川本世津子。たぶん、子供のころから芸能界で生きてきていたのだろう。学校に通っていなかった。字をきちんと読むことができない。台本を読むのにも苦労する。辞書をひきながら、台本にむかっていた。

ただ、学校に通っていなかったというだけの設定では、ドラマとしてあまり意味がない。まあ、その当時、そのような人がいたというだけの風俗描写におわってしまう。

重用なのは、学校に通っていなかったので、友達がいなかった、同級生がいなかった、というところにある、と見た。

その世津子とみね子との会話。みね子が三男のことを話すと、世津子は言っていた……同級生がいない、と。何気ない台詞であるが、幼いころから芸能界で生きてきた人間の孤独がしみじみと出ていたように思う。

芸能界で、ライバルはいたかもしれないが、同級生のような友達にはめぐまれなかった孤独があったのだろう。そのような孤独な人生をおくってきた彼女にとって、みね子の父(実)は、どれほど意味のある存在だったろうか。おそらく、唯一こころのやすまる時間であったのだろう。なぜ、世津子は、みね子の父(実)のことをだまっていたのか。その背後には、孤独な人生があったからであろう。

ここは、ドラマを見る側の想像力になる。孤独な人生を歩んできた名女優にとって、ふと出会った記憶喪失の人間……みね子の父、実……は、かけがえのない存在であったにちがいない。それを、ある日、「家族」があらわれて、連れ去ってしまう。

このような名女優の孤独と喪失感を、この脚本は描いている。そして、菅野美穂は、そこをうまく演じている、と思って見ていた。この孤独感を描くために、世津子は、学校に通っていなかったという設定……それは、その当時としてさほど不自然なものではない……があるのだと解釈する。

平仮名の多い手紙は、世津子の孤独感の伏線であったのである。