『あの頃、あの詩を』鹿島茂(編)2017-11-23

2017/11/23 當山日出夫(とうやまひでお)

鹿島茂(編).『あの頃、あの詩を』(文春新書).文藝春秋.2007
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166606085

『吉本隆明1968』を読んで、この本が出ていることを知った。今では、もう売っていない本のようである。古本で買った。

この本は、昭和30年代の、中学校の国語教科書に採用されていた詩をあつめたアンソロジーである。編者(鹿島茂)が、実際に中学生のころに学校の教科書で読んだ作品群ということになる。

私は、鹿島茂の生まれ、1949年よりも、少し後の生まれである(1955)。世代的には、接続する世代ということになるであろうか。この本を通読して、共感する部分が少なからずある。

二点をまず確認しておきたい。

第一には、日本の近代の抒情は、まさに詩によって形作られてきているということの確認である。島崎藤村、北原白秋、などの作品が収録されている。これを読むと、日本の近代の抒情詩の歴史に重なることになる。

第二には、編者(鹿島茂)が指摘していることだが、昭和30年代の中学国語教科書の詩には、ある種のバイアスがかかっていることである。明るい希望、未来への夢をうたった詩の多いことに気付く。それを、編者(鹿島茂)、戦争という経験を経たうえでの、この時代に特有の雰囲気であったと説明している。

以上の二点が、このアンソロジーを通読して確認しておきたいところである。

そういえば、何故か、中学の時の国語教科書というのは、詩からはじまていたような記憶がある。詩というものが、文学の根幹にあるという発想からなのだろうか。ともあれ、私もまた、文学というものを読む経験において、詩を読むということは、中学の時の国語教科書にあったように憶えている。

このアンソロジーを通読すると、無性に懐かしい感じがする。その一方で、私が読んだ詩はこんなではなかったという違和感のようなものを感じる。それは、とりもなおさず、この時代(昭和30年代)の国語教科書に特有のものであったと判断されよう。私の時代(昭和40年代)になると、それが、微妙に変わってきていたのかもしれないと思う。

たぶん、私の時代になると、伝統的な叙情性の中に回帰してきていたのかもしれない。

気付いたこととしては、このアンソロジーには、萩原朔太郎がはいっていない。編集の方針として、編者(鹿島茂)が意図的に落としたということではいないようだ。30年代の国語教科書にははいっていなかったのだろうと思われる。

国語学、日本語学という領域は、国語教育という分野とは、接してはいるが、離れている。今、どのような詩が国語教科書に載っているのか、知らない。また、詩というものが、日本語研究の領域であつかわれるということはないようである。古くさかのぼれば、和歌は、資料になるのだが。

私が、中学、高校の頃、「日本の詩歌」(中央公論)のシリーズがあった。その後、文庫版(中古文庫)も出たりしていたが、今では絶版になったままである。文庫本で読める詩も数少なくなっているようだ。

日本の文学ということを考えるとき、やはり詩をはずすことはできない。さらには、今では読まれなくなってしまったが、漢詩も、文学史的には重要である。

たとえば、

中村真一郎.『頼山陽とその時代』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2017 (中央公論社.1971)

など読むと、近世における、抒情詩、叙景詩において漢詩を無視し得ないことが実感される。この本については、思ったことなど書きたいとおもって、手元においてあるのだが、なかなかその順番が回ってこないでいる。

ことばというものを研究する立場にいるもののはしくれとして、詩を読む心をうしないたくはないと思う次第である。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/23/8732826/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。