『本居宣長』小林秀雄2018-03-15

2018-03-15 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(上)

小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/
http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/

再読、といっていいだろうか。この本が出たのは、1977年。私の学生のころである。そのころ、手にしていくつかの文章を読んだ記憶、また、その当時のこの作品についての書かれたもののいくつかを目にした記憶があるのだが、全部を通読するのは、始めてになる。新潮文庫版は、『本居宣長』(1977)に、「本居宣長補記Ⅰ」「本居宣長補記Ⅱ」、それから、江藤淳との対談をおさめる。また、注記もついている。しかし、解説・解題の類はない。

この本が出た時、私は、大学で国文学を学んでいる学生であった。そのせいだろう、気になって手にした本ではある。だが、(研究者ではない)評論家の書いたものとして、どこか遠ざけて見ていたように記憶している。その後、再び手にすることなく、時間が過ぎてしまった。文庫版は、以前から買っておいてあったのだが、積んであった。

もう、国文学、国語学という世界から隠居しようと思い定めて、あらためて手にしてみた。これは、『夜明け前』(島崎藤村)を読んで、平田篤胤それから本居宣長のことが出てきたので、ちょっと気になったのが一つ。

それから、どうせこの本で小林秀雄がいわんとすることは分かっている……そのようなつもりではいたが、やはり、きちんと全文を読んでおきたいと思ったのが一つ。小林秀雄も、現代においては、古典といっていいだろう。

さらには、次の本を買ってあったこともある。(まだ、読んではいないのだが。)

若松英輔.『叡知の詩学-小林秀雄と井筒俊彦-』.慶應義塾大学出版会.2015
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766422696/

この『本居宣長』で語られていることは、次の箇所でつきるかもしれない。

「この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくりあった思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。」(上巻 p.25)

宣長の生活感覚によりそうような形でしか、その思想の後をたどることができない。だが、その仕事は膨大である。ほぼ、古典国文学、国語学のほとんどの領域にまたがるといってよいであろうか。

『源氏物語』も『古事記』も、しかるべく……つまりは、宣長の後をうけて成立した近代の国文学、国語学の方法論にしたがって……読んだことのないものには、宣長の思想は理解できないことになるのかもしれない。この本の出た当時、国文科の学生であった私には、手を出しにくい本の一つであったということになる。すくなくとも、自分自身の「自分の身の丈」にあった読み方で、『源氏物語』『古事記』を読むという経験を経た後でないと、この本は、ただ難解なだけの本におわってしまいかねない。

この本を読み終わった印象をのべるならば……これから「古典」を読んで時間をつかいたいということである。『源氏物語』も『古事記』も本はいくつか持っている。本居宣長全集(筑摩版)も持っている。「古典」を読むことが、自分の「身の丈」を知ることならば、強いて背伸びすることなく、素直な気持ちで、本を読むということに時間をつかってみたい。

現代において、読者を「古典」へといざなう本である。

追記 2018-03-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月16日
『本居宣長』小林秀雄(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/16/8804393

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