『わろてんか』あれこれ「わろてんか隊がゆく」2018-03-11

2018-03-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第23週「わろてんか隊がゆく」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/23.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年3月4日
『わろてんか』あれこれ「夢を継ぐ者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/04/8797434

ドラマは、いよいよ戦争の時代を描くことになる。これはこれで、歴史の流れなのであろうが、しかし、これまでこのドラマは、時代の世相をほとんど描かずにきている。大正デモクラシーも、昭和初期の不況も、まったくとりあげなかったといってよい。

それが、昭和になって、支那事変以降の日中戦争の時代になって、突然、戦争とのかかわりを取り上げるようになっている。何かしら、唐突な感じがしないでもない。これまで、その時代の世相とか時代的背景とかをはさみこんできていれば、その流れの必然として、時代の変化も理解できるのだが、いきなり戦争の時代になって、ちょっととまどう感じがある。

戦争の時代である。芸人たちのなかにも、また、北村笑店の社員の中にも、応召となるものが出てきてもいいのだが、そうはなっていない。北村笑店は、戦地(中国)へ、慰問団を送るという展開。そこで、上海に行っていて、リリコと四郎に、再開することになる。

戦争の時代の芸能がどんなものであったのか、いろいろな角度から見ることができるだろう。それを、このドラマでは、戦地に赴く兵士に笑いを提供するものという位置づけである。

しかし、もっといろんな側面があったろう。時代への風刺。また、昭和初期なら、エログロナンセンスの流れもあったろう。そのようなものを、このドラマは、あつかってこなかった。

そのせいだろう……ここにきて、戦地慰問団の派遣、そこでの軍とのやりとり、これが、どうもとってつけたような感じにしか見えない。

昭和の戦前は、まだ今の時代に生きる我々にとって、記憶の延長のうちにある時代である。その時代に生きた人びとをいかに生き生きと描くか、そこにドラマの見どころがあるのだろうと思っている。戦争の時代に生きてきた、芸人たちの生活の悲哀のようなものがにじみ出る、しかし、どことなく救われる感じもする、そのようなドラマを期待して見ている。

追記 2018-03-18
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月18日
『わろてんか』あれこれ「見果てぬ夢」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/18/8805806

第29回「東洋学へのコンピュータ利用」に行ってきた2018-03-12

2018-03-12 當山日出夫(とうやまひでお)

第29回「東洋学へのコンピュータ利用」

2018年3月9日は、第29回「東洋学へのコンピュータ利用」である。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2018.html

例年よりも発表が多かった。朝、長女が仕事に出るのとおなじに駅まで行く。去年までは、それでもかなり早めについたと憶えているのだが、今年は、開始ギリギリの時間になってしまっていた。会場の部屋はすでにほとんど一杯だった。

同日、デジタルアーカイブ学会が東京でやっていたのだが、それでも、多くの発表があり、また、多くの人をあつめている。

例によって、文字についての発表がほとんどであった。個々の発表については特に言わないことにして、総合して印象を述べれば……すでに、コンピュータの文字は、ユニコードの世界になっている、ということである。もはや、JISコードのことを問題にはしてない。

これも、まったく問題にならなくなったというわけではない。私の発表した変体仮名の問題は、コンピュータと仮名というテーマで言うならば、JISコードとユニコードで、その微妙な差異に大きな問題をはらんでいる。(ただ、見た目の問題としては、ユニコードでは、JISの仮名を表示できないかのごとくである。これは、JISコードとユニコードの関係を把握していないと、全体がわからない。)

とはいえ、なかで興味深い発表をひとつだけあげておくならば、次の発表だろう。

安岡孝一
ISO/IEC 10646:2017にない日本の漢和辞典の漢字

最新の版でも、現代の日本の漢字辞典……大漢和辞典、新大字典、新潮日本語漢字辞典、新字源……(それぞれ最新版)などの漢字で、ふくまれていないものがある。その多くは、異体字であったり、国字であったりである。これらの漢字が、これから、どのようなるのか、ここは注目しておかなければならないことである。

この論文は、すでにオンラインで公開されている。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/2018-03-09.pdf

研究会がおわって、例年のように懇親会。家にかえったら、10時半ごろになっていた。来年は、2019年3月8日の予定である。それまでに、自分の勉強が少しでも進んだら、また発表しようかと思っている。(だが、それよりも、本を読む生活をおくりたいのであるが。)

『西郷どん』あれこれ「篤姫はどこへ」2018-03-13

2018-03-13 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年3月11日、第10回「篤姫はどこへ」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/10/

前回は、
やまもも書斎記 2018年3月6日
『西郷どん』あれこれ「江戸のヒー様」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/06/8798469

この回は、まずは、篤姫をめぐる一連の動きだろう。興味深かったのは、篤姫の教育係として出てきた幾島。(確か、以前の大河ドラマ『篤姫』でも登場していたと憶えている。今回は、南野陽子であった。)

篤姫は、徹底的に、薩摩ことばを矯正させられることになる。将軍のもとにとつぐには、薩摩ことばのままではふさわしくない、ということである。このあたりは、『マイ・フェア・レディ』を思わせる。

幾島は、「もす」が気になるらしい。また、部屋の壁に、薩摩ことば矯正のための張り紙がしてあったのが、面白かった。

「役割語」的に考えるならば……むしろ逆に、薩摩ことばをどこかにふくんでいる篤姫の方が、ドラマとしての篤姫らしいということになるのかもしれない。だが、これから、篤姫は、江戸城の大奥に入って、大奥ことば(とでもいうべきであろうか)を話すようになるのだろう。

その幾島のことばであったが、上級武家の女性ことばに、すこし、京都ことばがはいっている感じであった。

それから、橋本左内。西郷に、島津斉彬の幕政改革の計画のうちを語る。だが、西郷には、それが理解できない。まだ、薩摩から出てきたばかりで、お庭方になっただけの西郷には、その当時の、日本の情勢、世界の情勢が、わかっていない。

これが、その後、明治維新を推進する立場になる。倒幕軍をひきいて、江戸にむかうということになる。このような今後の一連の動きのなかで、どのようにして、西郷が、その世界観、歴史観を形成していくことになるのか、これが、これからのこのドラマの見どころということになるのだろう。

これから西郷が、斉彬の薫陶を受けて成長していく、教養小説、いや、教養ドラマ、ということになるのだろうか。また、島津斉彬のお庭方、あるいは、篤姫付用人という視点から、幕末の時代をどのように描くか、これからの楽しみとして見ることにしよう。

追記 2018-03-20
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月20日
『西郷どん』あれこれ「斉彬暗殺」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/20/8807103

沈丁花が咲き始めた2018-03-14

2018-03-14 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は沈丁花の花である。

前回は、
やまもも書斎記 2018年3月7日
梅のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/07/8798958

我が家の裏手に、ひとつ沈丁花の花の木がある。家の出入りのときに、かならず目にする木である。それが、ようやく花を咲かせ始めた。まだ、咲いているのは、ちらほらという感じである。

他に、梅の木がそろそろ花を咲かせ始めている。木瓜の木ももう咲きそうである。これから、順次、春になっていって花の咲くのを写真に撮っていってみようと思っている。

沈丁花

沈丁花

沈丁花

沈丁花

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

『本居宣長』小林秀雄2018-03-15

2018-03-15 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(上)

小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/
http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/

再読、といっていいだろうか。この本が出たのは、1977年。私の学生のころである。そのころ、手にしていくつかの文章を読んだ記憶、また、その当時のこの作品についての書かれたもののいくつかを目にした記憶があるのだが、全部を通読するのは、始めてになる。新潮文庫版は、『本居宣長』(1977)に、「本居宣長補記Ⅰ」「本居宣長補記Ⅱ」、それから、江藤淳との対談をおさめる。また、注記もついている。しかし、解説・解題の類はない。

この本が出た時、私は、大学で国文学を学んでいる学生であった。そのせいだろう、気になって手にした本ではある。だが、(研究者ではない)評論家の書いたものとして、どこか遠ざけて見ていたように記憶している。その後、再び手にすることなく、時間が過ぎてしまった。文庫版は、以前から買っておいてあったのだが、積んであった。

もう、国文学、国語学という世界から隠居しようと思い定めて、あらためて手にしてみた。これは、『夜明け前』(島崎藤村)を読んで、平田篤胤それから本居宣長のことが出てきたので、ちょっと気になったのが一つ。

それから、どうせこの本で小林秀雄がいわんとすることは分かっている……そのようなつもりではいたが、やはり、きちんと全文を読んでおきたいと思ったのが一つ。小林秀雄も、現代においては、古典といっていいだろう。

さらには、次の本を買ってあったこともある。(まだ、読んではいないのだが。)

若松英輔.『叡知の詩学-小林秀雄と井筒俊彦-』.慶應義塾大学出版会.2015
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766422696/

この『本居宣長』で語られていることは、次の箇所でつきるかもしれない。

「この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくりあった思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。」(上巻 p.25)

宣長の生活感覚によりそうような形でしか、その思想の後をたどることができない。だが、その仕事は膨大である。ほぼ、古典国文学、国語学のほとんどの領域にまたがるといってよいであろうか。

『源氏物語』も『古事記』も、しかるべく……つまりは、宣長の後をうけて成立した近代の国文学、国語学の方法論にしたがって……読んだことのないものには、宣長の思想は理解できないことになるのかもしれない。この本の出た当時、国文科の学生であった私には、手を出しにくい本の一つであったということになる。すくなくとも、自分自身の「自分の身の丈」にあった読み方で、『源氏物語』『古事記』を読むという経験を経た後でないと、この本は、ただ難解なだけの本におわってしまいかねない。

この本を読み終わった印象をのべるならば……これから「古典」を読んで時間をつかいたいということである。『源氏物語』も『古事記』も本はいくつか持っている。本居宣長全集(筑摩版)も持っている。「古典」を読むことが、自分の「身の丈」を知ることならば、強いて背伸びすることなく、素直な気持ちで、本を読むということに時間をつかってみたい。

現代において、読者を「古典」へといざなう本である。

追記 2018-03-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月16日
『本居宣長』小林秀雄(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/16/8804393

『本居宣長』小林秀雄(その二)2018-03-16

2018-03-16 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長(下)

続きである。

やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701

小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977)
http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/
http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/

普段、本を読むとき、付箋をつけながら読む。だが、この本(『本居宣長』)を読むときは、極力、付箋をつけなかった。付け始めたら、毎ページ付箋だらけになってしまいそうだったからである。

だが、そうはいいながら、どうしても、このことばは、小林秀雄が読んだ本居宣長として記憶にとどめておきたいと思って、付箋をつけた箇所がある。その一つを次に引用しておく。

「それが、宣長が、「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を越えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「神(あや)しき」経験を、描き出すに到ったのである。」(下巻、p.155)

このような箇所を読むと、この後は、『古事記』『源氏物語』を読むしかない。あるいは、『古事記伝』を読むことになろうか。今の注釈本ではなく、『古事記伝』で『古事記』を読んだおかなければならないことになる。

筑摩書房版の『本居宣長全集』はもっている・・・覚悟をきめて『古事記伝』読破にとりくむことにしようか。(学生のころ、図書館で手にしたことはあるのだが、全巻の通読はしていない。このような人は多いだろう。)

いや『古事記伝』に限らず、世に「古典」といわれる本は多い。その多くがなぜ「古典」であるのか……それは、読まれてきた歴史のある書物であり、その読まれてきた歴史が、また新たな書物の歴史として積み重なっているものである。この意味において、小林秀雄『本居宣長』は、「古典」である。また、『古事記伝』を古典たらしめているのが、小林秀雄『本居宣長』であるともいえようか。

なお、付言しておくならば、新潮文庫版『本居宣長』を読んで、特にその「あはれ」の分析に接してみて、私の脳裏に去来したのは、『意識と本質』(井筒俊彦)であった。人間の精神のいとなみのもっとも奥深いところを見極めた文章である。

『意識と本質』も、この前読んだ(再読)のは、去年の夏のことになる。夏休みの読書と思って、いくつか井筒俊彦の著作を読みかえした。これも、さらに再読、再々読しておきたい。


『湖の男』アーナルデュル・インドリダソン2018-03-17

2018-03-17 當山日出夫(とうやまひでお)

湖の男

アーナルデュル・インドリダソン.柳沢由実子(訳).『湖の男』.東京創元社.2017
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488010706

『湿地』『緑衣の女』『声』と読んできて、この本も読んでみたいと思った。週間文春の2017のミステリベストテンでは、海外の7位になっている。待っていれば、文庫版が出るのだろうが、読書の勢いというものがある。

舞台は、これまでのようにアイスランド。ある湖から死体が発見される。その死体には、ソ連製とおぼしき盗聴器が一緒だった。死体はいった何者なのか。エーレンデュルたちが操作を開始する。

それと平行して語られる、過去のものがたり。まだ東西冷戦の時代に東ドイツに留学した学生たちのはなし。その回想。

二つのものがたりが最後で一つになる。

この作品を読みながら、ふと気になって、著者の生まれを確認してみた。1961の生まれである。であるならば、1989年のベルリンの壁崩壊の時のことを、体験として知っている世代になる。そして、それ以前の東西冷戦の時代のことも。

この作品は、読んでいって、ある意味で、すぐにネタがわかる。東西冷戦の時代が生んだ悲劇として読むことになる。それはわかるのだが、ミステリとして、最後まで、いったい誰が何のためにという謎のおとしどころまでひっぱっていく力量は、この著者ならではのものだろう。

東西冷戦の時代、その時代を背景にして、いくつものミステリ、冒険小説、スパイ小説が書かれてきた。この作品は、スパイ小説という感じではないが、しかし、その時代背景のもとに生きてきた、また、それをひきずって冷戦終結後も生きざるをえなかった、人びとの生き方、その不幸な人生を描くことに成功しているといっていいだろう。

そしてまた、東西冷戦のまっただなかにあった、アイスランドという国のあり方と歴史を背景にして、うまく成り立っている作品でもある。この作品も、強いてミステリにする必要はなかったかとも感じる。しかし、エーレンデュルのシリーズの一つとして、現代の北欧、アイスランドの国のかかえる諸問題……主に家族の問題……を描いている。東西冷戦終結後の21世紀になったからこそ書くことのできたテーマであると思わせる。

『わろてんか』あれこれ「見果てぬ夢」2018-03-18

2018-03-18 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』第24週「見果てぬ夢」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/24.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年3月11日
『わろてんか』あれこれ「わろてんか隊がゆく」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/11/8801356

この週の見どころは、検閲だろう。

これまでの朝ドラで、表現するものと、それに対する規制のことが描かれなかったわけではない。近年の例でいえば、『とと姉ちゃん』『ゲゲゲの女房』などに、出てきたと憶えている。

てんたちは、『お笑い忠臣蔵』を制作しようとするのだが、検閲にひっかかる。どうやら、裏でライバル会社の帝国キネマが手をまわしているらしい。このあたり、そのようなことで、内務省の検閲が左右されることがあるのかどうか、ちょっと気になったところではある。

ともあれ、北村笑店では映画制作にすすむことになる。そして、最後のシーンでは、伊能栞がひとり静かに去って行くところで終わっていた。たぶん、伊能栞が自ら身をひくことで、映画の制作をなんとかしようというこだったのだろう。

ところで、次週は、いよいよ太平洋戦争ということになるらしい。これまで朝ドラでは、幾度となく戦争というものを描いてきた。今、再放送している『花子とアン』も、まさに戦時中のことで進行している。

戦争中、はたして、お笑い芸能はどのように見られていたのだろうか。軍隊に慰問に訪れるだけの存在ではなかったはずである。普通の人びとの生活にとって、お笑い芸能がどんなものであったのか。また、芸人にとって戦争とは何であったのか。このあたり、どう描くことになるのだろうか。

しかし、戦時中に忠臣蔵の映画を作ったりしていて、戦後になって、今度は、GHQの検閲にひっかかるかもしれないと、この先のことも気になってしまう。

このドラマも後二週である。玉音放送まであるのだろうか、これも気になるところである。

追記 2018-03-25
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月25日
『わろてんか』あれこれ「さらば北村笑店」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/25/8810855

『やちまた』足立巻一2018-03-19

2018-03-19 當山日出夫(とうやまひでお)

やちまた上

足立巻一.『やちまた』(上・下)(中公文庫).中央公論新社.2015 (河出書房新社.1974 1990 朝日文芸文庫.1995)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206097.html
http://www.chuko.co.jp/bunko/2015/03/206098.html

私は、この本の初版が出た時に買って読んだのを憶えている。河出書房新社版である。さがせば、まだどこかに残っているはずだが、新しい文庫版を買っておいて、積んであった。『本居宣長』(小林秀雄、新潮文庫版)を読んで、次に読んでみたくなって、手にした。

『やちまた』というタイトルは、『詞八衢』(ことばのやちまた)からきている。著者は、本居春庭。本居宣長の子どもである。だが、その生涯のうちで、失明ということになり、盲目の国学者として仕事を残した。その主な研究領域は、文法、特に動詞の活用の研究にある。現在でも、この研究の延長上に、古典日本語研究はあるといってよい。

この本を読んで感じたこと……まだ、大学の国文科の学生だったときのことなのだが……ちょっと物足りない気がしたのを憶えている。それは、本居春庭の評伝と言っていいだろうか、その人生を克明に資料にもとづいて追っているのだが、肝心の『詞八衢』という本の内容については、あまり言及することがない。いったい、『詞八衢』という本は、どんな本なのか、何が書いてあるのか、隔靴掻痒の感じがつきまとう。

それも、今になって、一応、国語学という分野で仕事をしてきた人間として、なんとなくそれも分かるようになってきてはいる。しかし、気持ちをリセットしてこの本を読んでみると、やはり『詞八衢』という本の内用が気になってくる。

とはいえ、そこを除けば、実に面白い。その面白さの一つは、この作品の重層性にある。

二つのことが重なって語られる。

一つは、著者の経歴、経験である。上巻では、戦前(昭和の前期)、伊勢の神宮皇學館という学校に在籍して、国文学を学んでいたときの学生生活の回想。今から見れば、いわゆるバンカラな、しかし、質実、素朴な学生生活。その学生仲間どうしの友情。また、それを教える教師の姿。これらば、学生生活の回想として、実にリアルでありながら、情感細やかに描写されている。下巻になると、主に戦後、戦地から復員してきてから、仕事の合間に、本居春庭のことを調べることになる。そこで、かつての学友、また、教員との交流が語られる。それは、決して美しいことばかりではない。戦前から戦後しばらくの時期のことである。戦争があり、それにともなう、様々な悲しみもある。

二つには、学生の頃から戦後になっても、著者は、本居春庭のことが気になって調査をつづける。国語学の研究史としては画期的な仕事になる、動詞の活用の整理ということが、どのようにしてなしとげられていったのか、著者は、各地を旅して調査する。父である本居宣長は無論のこと、京都でめぐりあっていたと思われる、富士谷成章、それから、鈴木朖などの研究との関連を追及していく。どこに春庭の独創があるのか、先行する研究者(国学者)との関係はどうなのか、執拗に著者は追っていく。

つまり、戦前から戦後にかけての著者の半生の回想と、『詞八衢』という本の成立過程を追っていくこととが、ないまぜになって語られる。

正直言って、昔、学生の時にこの本を読んだときには、二つの要素の混交にいささか煩わしく感じたものであった。だが、今になって再読してみると、逆に、二つのことがらが見事に融合して、一つの物語を形成していることを感じる。これは、見事な文学作品になっている。

これは、「ことば」というものを追っていく人間のあり方……それは、昔生きていた本居春庭であり、そして、現代においてその伝記を追求している著者の姿でもある……に、共感するものがある、いや、そのように感じるようになってきた、ということなのだろう。まだ、国文科の学生であったときには、分からなかったことであるといってもいいかもしれない。ようやく、この年になって、これまで「ことば」をあつかう国語学という分野でなにがしか仕事をしてきて、それがあって再度読んでみて、少なからず感じるところのあった作品である。

追記 2018-03-22
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月22日
『やちまた』足立巻一

『西郷どん』あれこれ「斉彬暗殺」2018-03-20

2018-03-20 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年3月18日、第11回「斉彬暗殺」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/11/

前回は、
やまもも書斎記 2018年3月13日
『西郷どん』あれこれ「篤姫はどこへ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/13/8802495

さて、では、犯人は誰なのだろうか、という展開であった。

見どころはいろいろあると思うが、何よりも、西郷の斉彬への忠誠心である。封建的主従関係において、西郷は絶対的な忠誠心を斉彬に対していだいている。その西郷を、斉彬は、お庭方としてつかっている。

西欧列強が迫り来るなか、斉彬には一刻の猶予もない。軍備を固めねばならない。また、将軍の後継を決めなければならない。だが、その一橋慶喜は、将軍になどはなる気はないらしい。

このドラマ……ナショナリズムのドラマとして見ている。少なくとも、そのような面はある。(ただ、私は、ナショナリズムを悪い意味で使おうとは思っていない。)

幕末から明治期にあって、我が国が「日本」として一つにまとまっていく理念として、ナショナリズムは必須のものだった。それを、どのように説得力をもって描くかということになる。

この意味では、今のところ、なんとなく斉彬一人が、日本のナショナリズムを背負っているかのごとくである。これも、立場を変えれば、水戸ならば、水戸なりのナショナリズムがあってもいいのだろう。ただ、それは、歴史の激変のなかでついえていくことになるのだが、ドラマは、まだその前の段階である。

明治期の日本のナショナリズムを描いたドラマとしては、近年では、『坂の上の雲』があった。司馬遼太郎にしたがって、明治期のナショナリズムを、ある意味では健全なものとして描いていた。たぶん、斉彬から、西郷、そして、『坂の上の雲』の登場人物たちは、つながっていくのだろう。その根底にあるものは、パトリオティズム(愛郷心)を基礎とした上にある、素朴なナショナリズムの感情と理念である。

ところで、このドラマが、ここで、斉彬暗殺未遂を描いたということの意図はどこにあるのだろうか。この事件の後、実際に斉彬は死ぬことになる。それは、病死であったのか、あるいは、暗殺であったのか、謎につつまれているようだ。

たぶん、この後におこる斉彬の死の伏線として、今回の出来事があったことになるにちがいないと思って見ている。となると、やはり、斉彬暗殺説ということになるのだろうか。

ともあれ、斉彬のお庭方である西郷が、独自に封建的忠誠心とパトリオティズムとナショナリズムを融合させた一つの人格として育っていくのが、これからの展開ということになるのだろう。そのような西郷の成長の物語が、このドラマの基本にあるように見ている。

そして、そこにからんでくるのが篤姫。篤姫の今後も楽しみである。

追記 2018-03-27
この続きは、
やまもも書斎記 2018年3月27日
『西郷どん』あれこれ「運の強き姫君」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/27/8812513