『わろてんか』あれこれ「みんなでわろてんか」2018-04-01

2018-04-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『わろてんか』最終週「みんなでわろてんか」
https://www.nhk.or.jp/warotenka/story/26.html

最後は新喜劇だった。ということは、このドラマ全体が、ふりかえってみれば新喜劇であったということを意味しているのだろう。

それが面白かったかどうか……となると、ちょっと微妙。前半、駆け落ちした二人が寄席を始めて、寺ギンとはりあって、大阪で席亭をひろげていく、このあたりまでは面白かったと思うのだが、それからが、どうも今ひとつ面白くなかった。

一つには、このドラマが、基本的にその当時の世相とか社会的背景とかを描かずにきたということにあるのだと思う。大正時代ならではの、いわゆる大正デモクラシーもなかった。また、昭和にはいってからも、不況も、エログロナンセンスもなかった。それでありながら、戦争になって、突然、戦争中のいろんなできごとが登場してきた。ちょっとちぐはぐな感じがしたのである。

それぞれの時代において、芸人というちょっと社会からはずれたところにある、だが、日常の生活の延長にある娯楽としての笑い、そのなかに生きる芸人というものを、じっくりと描くことがあってもよかったのではないか。

ところで、このドラマの始まるときに、次のようなことを書いたのであった。

やまもも書斎記 2017年10月8日
『わろてんか』あれこれ「わろたらアカン」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/10/08/8697997

ここで考えてみたこと……ことごとく裏切ってこのドラマは進行していた。社会の風刺もない、芸能の世界に生きる人間への差別ということもない……今の、テレビを中心とする芸能界だって、こんなにきれいなことはないと思うのだが。しかし、そこは、わりきらないと、朝ドラとして「笑い」をあつかったドラマにはならなかったということなのかもしれない。

このドラマで印象にのこっているのは、落語家の団真、団吾、それから、お夕をめぐる一連のできごと。ここには、芸の世界に生きる人間の哀切が、しみじみと描かれていた。ここをもうちょっとひろげて、明治から大正ぐらいの時代に生きた芸人の喜怒哀楽を描くドラマにしてもよかったのではないだろうか。

まあ、ともあれ、半年のドラマが終わった。これはこれで面白かった。次作の『半分、青い。』がどんなドラマになるか、楽しみに見ることにしよう。

『嵯峨野明月記』辻邦生2018-04-02

2018-04-02 當山日出夫(とうやまひでお)

嵯峨野明月記

辻邦生.『嵯峨野明月記』(中公文庫).中央公論新社.1990 (新潮社.1971)
http://www.chuko.co.jp/bunko/1990/08/201737.html

高校生の頃に出た本である。買って何度か読み返した。その後、大学で国文学、国語学という勉強を始めてからは、とおざかってしまった。「嵯峨本」という、近世初期に刊行された、豪華美麗な古活字本のことは、その国文学、国語学の勉強の中で、あらためて知るところとなった。

この作品は、三つの「声」の語りでなりたっている。本阿弥光悦、俵屋宗達、角倉素庵、この三人である。

四〇年以上を経て再読してみて感じるところは次の二点であろうか。

第一には、この作品に端的に表れている芸術至上主義。以前、若いころ、この作品を読んだときには、それにあこがれもし、また、逆に反発してみたりもしたのだが……今になって読み返すと、それが、戦乱の時代的背景をもとに成り立っていることに気付く。いや、本能寺の変から、秀吉の時代、文禄慶長の役、関ヶ原の戦い、大阪の陣……これらの一連の世の中の戦乱というものを背景にして、この作品の芸術至上主義とでもいうべきものがなりたっている。

世の中の戦乱があってこそ、「美」というものへのあこがれもつのる。ここのところが、若い時には感じ取れなかったところでもある。

今になって、この作品を再読してみて、「美」の背景に描かれている世の中の戦乱ということに、思いをはせることができるようになった。それは、東西冷戦の終結から二十一世紀の今日にいたる、世界の激動を、報道を通じてであれ接してきたということがあると感じる。

第二には、その芸術至上主義。といっても、ニヒルな感じはしない。自分が生きている基盤の上にしっかりと足をおろしての、芸術至上主義である。

たとえば、次のような箇所。

「しかしその朝、私は雲や花や杉木立と別個の存在ではなかったのだ。私は光悦などではなく、まさに流れゆく雲に他ならなかった。散りゆく藤の花に他ならなかった。私は雲であり、花であり、杉木立であった。私はそうした兄弟たちに囲まれ、兄弟たちと共に生れ、共に生き、共に消えてゆく存在だった。」(p.429)

「まさしくこの生は太虚にはじまり太虚に終る。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命をとり戻すのだ。」(p.431)

生きている自分自身の内側から、生きていること、その喜びと芸術への讃仰が語られる。

以上の二点が、この作品を数十年ぶりに読み返してみて、感じるところである。

『嵯峨野明月記』は、『背教者ユリアヌス』の新しい文庫本が出たので読もうと思って、その前に、順番に出ているものから読みたくなって、読んでみたものである。

辻邦生の作品を読むのは、去年の『西行花伝』『安土往還記』以来になる。

やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

やまもも書斎記 2017年7月21日
『安土往還記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/21/8624553

その後、『廻廊にて』を読み返そうと思いながら果たしていない。

この作品は、三つの「声」の語りでなりたっているのだが、どの「声」も知的で、冷静である。各「声」ごとに幾分の個性のようなものを感じる文体であるが、総じて、知的な静謐さに満ちている。この作品のように知的で落ち着いて芸術というものを語る文学作品は、まさに近代の日本文学において希有なものかもしれない。

私も、もう、国文学、国語学という分野からは身をひきたくなっている。そのように思い定めた目で読んでみたことになる。専門的な書誌学的な知識……嵯峨本についての……ということは、些細なことのように思えるようになった。それよりも、安土桃山期を舞台にして、美と芸術に生きた人びとの「声」に静かに耳をかたむける、そのような気持ちでこの作品を読んだ。いや、この作品は、特定の時代、地域に限定されない。普遍性をふくんでいる。美と芸術に自分の存在の基盤を見いだしうるような人びとのあり方に、こころひかれるのである。

『廻廊にて』も読み返しておきたい。それから『背教者ユリアヌス』『春の戴冠』も読んでおこうとおもっている。年をとった今、若い頃……高校生、大学生のころに読んだ作品を再度じっくりと読み返しておきたくなっている。

『西郷どん』あれこれ「西郷どんスペシャル」2018-04-03

2018-04-03 當山日出夫(とうやまひでお)

4月1日(日)の放送は、スペシャルだった。通常のドラマはお休み。そのかわりに、鈴木亮平と渡辺謙との対談。これはこれで面白かった。(ちょっと残念だった気もしないでもないが。)

島津斉彬は、いずれ死ぬことになるのだが(そこのところをどう描くか、楽しみでもある)、斉彬の薫陶によって、幕末の薩摩をひきいて、倒幕から明治維新をなしとげたのが、西郷隆盛というのは、周知のこと。

対談を見ていて……ドラマを作っていく上で、脚本にない台詞や場面がおのずと生まれてくる、これは面白かった。例えば、斉彬が、西郷をお庭方に命じて、短刀をわたすシーンなど。このような解説を聞くと、ドラマを演じている役者さんが、ただ脚本のとおりに演じているのではなく、自らその役になって、ドラマを創造していっていることが理解できる。

渡辺謙と鈴木亮平の関係が、まさに、島津斉彬と西郷隆盛の関係になぞらえて見ることができる、ということなのかもしれない。大河ドラマにおける、先輩と後輩である。

ドラマを作る、演じることによって、役者自身も成長していくということである。

しかし、気になるのが、その斉彬の薫陶あるいは教育である。たしかに、人物的には西郷は成長していくということなのであろうが、その時勢を見る目、世界の中の日本、幕府、朝廷、薩摩藩、これらを俯瞰して、自らどう行動すべきか見定めていく知識・見識・判断力、これをどのようにして形成していったのか、このあたりをどう描くか、関心のあるところである。ただ、西郷という「人格」だけでは、明治維新はなしとげられない。

このあたり、盟友である大久保や、さらには、橋本左内の出番ということになるのかもしれない。また、一橋慶喜もからんでくることになるのだろうか。

ともあれ、ドラマは、江戸を舞台にして斉彬の薫陶を受けて、西郷の成長を描くことになる。篤姫も登場するようだ。次週以降を楽しみに見ることにしよう。

桜の花が咲いた2018-04-04

2018-04-04 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は桜である。

前回は、
やまもも書斎記 2018年3月28日
木瓜の花が咲いた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/28/8813272

ここに掲載の写真は、先週のうちに写しておいたものである。今年は、桜の花の咲くのが早い。我が家の桜は、比較的遅く咲くのであるが、それでも、もう満開である。水曜日の掲載にあわせて、その前日に写すとなると、もう散り始めているころになるのかもしれないと思って、先週のうちに撮影しておいたものである。

春といえば桜。

このようなことが人びとの生活のなかでおこなわれるようになったのは、古くは平安時代の王朝貴族にさかのぼることになる。特に、『古今和歌集』などに代表される、季節感……その延長のうえに、近現代の我々の季節の風物についての感覚も形成されている。しかし、『万葉集』の時代には、春を代表するものではなかった。また、今日普通に見ている桜の品種も近代になってからのものである。

このように、歴史的にそしてやや批判的に見る視点をもちつつも、それでも、春になって咲く桜の花は美しいと感じる。

まだ冬のうちの桜の冬芽、それが春になるにしたがって徐々にふくらんできて、咲きそうな状態になる。そして、春、四月のころに花開く。そして、葉がでてくる。このような季節の移り変わりを、写真に撮ってすごしたいと思うようになってきている。

詩歌の才があれば、歌に詠み、句に作るところかもしれないが、そのような才能はない。カメラを手にして、日常の身近な草花を観察していきたいと思っている。

桜

桜

桜

桜

桜

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-04-11
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月11日
散る桜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/11/8823456

『雪の階』奥泉光2018-04-05

2018-04-05 當山日出夫(とうやまひでお)

雪の階

奥泉光.『雪の階』.中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/tanko/2018/02/005046.html

これは、新聞(朝日)の書評を見て買った。書いていたのは、原武史。

奥泉光の作品、以前にいくつか手にした記憶はあるのだが、近年はとおざかっていた。ひさしぶりである。

読んで感じることは、本格的な小説を読んだな、という感じ。まさに重厚な小説である。本の帯を見ると、二・二六事件を背景にした、ミステリーロマン……だが、「本格」を期待して読んではいけないと思う。

たしかに謎はある。主人公は、伯爵令嬢の笹宮惟佐子。その親友、寿子が心中する。が、その死には不審な点があった。謎の心中事件をめぐっておこる、様々なできごと。謎のドイツ人の登場とその死。謎の尼寺。ドイツのスパイ組織か……不審な登場人物たちと、それをめぐっておこる、不可解なできごと。

ところで、二・二六事件とミステリといえば、『蒲生邸事件』(宮部みゆき)とか、北村薫のベッキーさんシリーズが思い浮かぶ。だが、この作品は、これらをあまり考えてはいないようだ。むしろ、読んで感じるのは、『細雪』(谷崎潤一郎)であったり、『春の雪』『奔馬』(三島由紀夫)であったりである。(私の読んだ印象としては、ということだが。)

「本格」として読むと、ちょっと弱い。だが、二・二六事件の前夜にいたる、東京の華族、それも、令嬢の物語として読めば、その重厚な文体とあいまって、作品の世界に引きずり込まれていく。

この小説、ある視点から見れば、「天皇制」をあつかった作品でもある。たぶん、戦前なら、問題になったにちがいない。歴史の始原から連綿と続く血の流れ、それを今につたえているものは、いったい誰なのか。そして、その一族につらなるものは、どう生きるべきなのか。このような問いかけの物語という側面ももっている。

戦前の華族の令嬢を主人公とした、血族をめぐるロマン、それにいくぶんのミステリ的要素をからめた壮大な物語、このように読めばいいだろうか。

だが、戦前、しかも華族という人びとのことを描くと、どうして、このように重厚なあつくるしい感じの文章になるのだろうか。このあたりのこと、現在の我々が昭和戦前のことを、どのような文体で語りうるのか、という観点から考えてみる必要もあるかと思う。

追記 2018-04-06
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月6日
『雪の階』奥泉光(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/06/8819843

『雪の階』奥泉光(その二)2018-04-06

2018-04-06 當山日出夫(とうやまひでお)

雪の階

つづきである。
やまもも書斎記 2018年4月6日
『雪の階』奥泉光
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/05/8819213

奥泉光.『雪の階』.中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/tanko/2018/02/005046.html

読みながら付箋をつけた箇所。作中である登場人物の語る台詞。

「戦争が国民を創成していくからです。戦争が人民大衆をして国民に鍛え上げていく。その点からすると、日清日露の戦は、国民という云う作物の種を植え、芽を育てたと云いうる。しかし、まだ十分でない。むしろこれからですよ。最後最終的には、英米との戦いのなかで、日本人は鍛えられ、国民となっていく。」(p.265)

現在、太平洋戦争後、さらに七〇年以上が経過している。この時点からかえりみて、確かに、太平洋戦争という共通の体験をもっているが故に、日本国民は日本国民としての共同体意識がある……このことに、改めて気付かされる。

この共同体意識の中に、組み込まれたものとして、沖縄があるだろうし、また、そこから微妙に疎外されたところにいる人びととして、「在日」の人びとのことも考えなければならないだろう。そのことをわかったうえで、なお、戦争という体験の上に、日本国民がなりたっていると感じる。

『雪の階』という小説を書いた作者の意図としては、二・二六事件を経て、日中戦争が本格化し、さらに太平洋戦争になる、という歴史の経緯をふまえて語っていることになるのだろうとは思う。そのような意図をくみとるとしても、ここで指摘されていることの意味は重要であると私には思える。

さらに考えて見るならば……二・二六事件という歴史的な事件を、人びとの記憶の延長の内側にもっている、今日の我々の日本人としての共同体意識とでもうべきものがあることになる。二・二六事件について、どのような物語を語ることになるにせよ、その事件は、我々の共通の意識のもとにある、そのように作者は考えているのかもしれない。

また、二・二六事件にいたる、その前夜のできごとを物語ったこの小説が読まれるということ自体……そのなかに、歴史を共有する共同体意識とでもいうべきものがある、このように作者は考えていたのかもしれない。

共通の体験をもつものとしての国民、その〈想像〉としての共同体……言い古されたことであるかもしれないが、これは、同時に、それを文学作品として持ちうる共同体であるともいえる。その共同体意識をふまえたものとして、また、それに楔をうちこむものとして……天皇家ならざる家の血の連続とは何を意図してのことなのであろうか……『雪の階』は書かれたように感じるのである。天皇が天皇でありうるのもまた〈想像の共同体〉の生み出したものなのであろうから。

『背教者ユリアヌス』(一)辻邦生2018-04-07

2018-04-07 當山日出夫(とうやまひでお)

背教者ユリアヌス(1)

辻邦生.『背教者ユリアヌス』(一)(中公文庫).中央公論新社.2017 (中央公論社.1972)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2017/12/206498.html

去年の暮れから刊行された新しく改版した文庫版、全四巻、この春に完結した。それを待って、一冊目から読み始めている。

この作品、昔、高校生のころ、単行本で出た時に買って読んだのを憶えている。こまかな活字で大部な小説だった。が、その当時、ほとんど違和感なく、この大冊を読み切ってしまったものである。特に、ラストのシーンを非常に印象的に憶えている。

辻邦生の作品は、ほとんど読んでいただろうか。ただ、大学生になって、国文学、国語学という方面の勉強を始めてからは、とおざかってしまった作家である。その芸術至上主義(といっていいだろう)には、心ひかれるものがあったが、その一方で、厳密な歴史考証の世界から見ると、小説の世界を低く見るようになってきた。それも、今では、国文学、国語学という世界からも退こうとして、改めて、昔読んだ作品など読みたくなって読んでいる。

年をとってしまったせいかもしれない……厳格な史実の考証ということよりも、どのような小説世界を構築しているのか、ということの関心で、作品に虚心に向かえるようになってきたということなのだろうと、自らかえりみて感じるところがある。

この作品の舞台は、四世紀の古代ローマである。その時代にあって、キリスト教に反して、古代ギリシャの文学、哲学にあこがれる哲人君主の姿である。昔、読んだときには、その姿には、『廻廊にて』や『夏の砦』の主人公たちに共通する、凜とした精神のありかたを感じていた。今、四〇年ぶり以上になろうか、読み返してみて、その印象はかわらない。

だが、昔は感じなかったこととして、なんと血なまぐさい時代を背景にした小説であることか、ということがある。血で血を洗うというべきか、皇帝一族の反目、粛正、激動の時代背景である。ローマ帝国も安泰ではない。東にはペルシアが攻め込んでいるし、西の方でも独立の動きがある。

古代統一国家ローマを統べる手段として、キリスト教が国の宗教になった。だが、そのようなキリスト教に、ユリアヌスは抵抗を感じている。古代ギリシャの文学、哲学の世界の精神の高さにあこがれる。

この作品では、「背教者」としてのユリアヌスが描かれるのだが、キリスト教への嫌悪のようなものは感じない。それは、理想としてのキリスト教の姿というようなものが、この作品の背後にあるからなのだろう。辻邦生作品に共通して見られるもの……キリスト教においてであれ、異教においてであれ、そのなかに屹立する精神の気高さ、これこそ読んで感じるものである。

第二巻以降を楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-04-14
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月14日
『背教者ユリアヌス』(二)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/14/8826026

『半分、青い。』あれこれ「生まれたい!」2018-04-08

2018-04-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『半分、青い。』第1週「生まれたい!」
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/story/week_01.html

この新しい朝ドラは、ヒロインの生まれる前からスタートしていた。これは、斬新な発想かもしれない。

まだ、第1週目は、子役の時代。小学生である。今週で、印象的だったのは、川をはさんでの糸電話のシーン。

川は、境界である。あるいは、この世と異世界とを隔てるもの、または、つなぐものである。河原は、その異世界との接点の場所。この世のうちにありながら別次元の世界へのいりぐちでもある。……まあ、民俗学的に解釈するとこうなるだろう。

その河原で、鈴愛と律は糸電話で話す。ただ、互いの名前を呼び合うだけではあるが。これは、何を表象しているのだろうか。

ヒロイン(鈴愛)と律は、確かに「糸」でむすばれている。「声」もとどいている。しかし、二人の間には「川」がある。二人を隔てている。

これからこのドラマは、岐阜を舞台にして、それから、東京にもうつって、鈴愛と律の二人の関係を描いていくことになるのだろう。そのスタートが、川をはさんでの糸電話というのは、今後の二人の関係をなにがしか予見させるものがある。つながっているようでいて、どこか途切れている、間に何か邪魔するものがある、そんな未来をなんとなく想像してしまう。

ところで、このドラマの時代設定は、1980年代初頭ということになる。その当時のテレビ、流行歌、漫画など、随所にとりこんであった。これは、以前の『ひよっこ』で、1960年代の世相を描いていたことに通じるものがある。

気になったのは、マグマ大使であったが……これは、食堂においてある漫画の本で読んだということであった。だが、テレビの放送を、鈴愛たちは見ていたのだろうか、このあたりのことはちょっと気になったところである。

私は、マグマ大使は、漫画でも、テレビでも、憶えている。しかし、見たのは白黒テレビであった。鈴愛たちは、カラーテレビで見たのだろうか。

次週以降も楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-04-15
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月15日
『半分、青い。』あれこれ「聞きたい!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/15/8826645

『悲しみのイレーヌ』ピエール・ルメートル2018-04-09

2018-04-09 當山日出夫(とうやまひでお)

悲しみのイレーヌ

ピエール・ルメートル.橘明美(訳).『悲しみのイレーヌ』(文春文庫).文藝春秋.2015
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167904807

たぶん多くの読者がそうであるように、私の場合も、『その女アレックス』を先に読んだ。で、この本が出て、買った。が、なんとなく積んであった本であるが、春休みの間にと思って、取り出してきて読んだ。

『その女アレックス』を読んでいるので、ある意味で結末がどうなるかは予想できるのだが、それでも、この作品のなかにひたりこんでしまう。カミーユという人物造形が魅力的である。

犯罪小説が文学でありうるとするならば、まさにこの作品は文学たりえていると感じさせる。この作品中でも、『アンナ・カレーニナ』とか『ボヴァリー夫人』に言及した箇所がある。いわれてみれば、多くの世界文学の名作は、なにがしかの意味で犯罪を描いたものが多い。ドストエフスキーの作品など、ほとんど犯罪小説といっていいだろう。

私の感じたところでは……『その女アレックス』があまりにも衝撃的な展開のストーリーであったので、どうしてもそれと比較してしまう。が、これは、これで、十分に堪能できる作品になっている。広義のミステリとしての犯罪小説としてなりたっている。強いていえば、文学としてのミステリであることを前提にしての作品といえようか。ともあれ、ある程度以上のミステリ好きにとっては、このての作品の作り方があったかと思わせる。

さて、次は『傷だらけのカミーユ』それから『天国でまた会おう』なのだが(これも、出た時に買って積んである)、これも読んでおくことにしよう。

『西郷どん』あれこれ「変わらない友」2018-04-10

2018-04-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年4月8日、第13回「変わらない友」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/13/

前回は、やまもも書斎記 2018年3月27日
『西郷どん』あれこれ「運の強き姫君」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/27/8812513

今回は、西郷と大久保の話。その友情である。

大久保利通が、西郷の盟友であり、西郷とともに明治維新をなしとげ、さらに、西郷の死後、近代国家日本の礎をつくった……これは、知られていることである。その大久保と西郷とは、鹿児島の同じ郷中の隣であった。そして、幼いころより一緒に育ち、友情を育んできた。まあ、この西郷と大久保のことは、例えば海音寺潮五郎なども描いているところではある。

大久保は、どちらかといえば、怜悧な能吏という印象で語られることが多いようである。だが、このドラマでは、熱血漢という側面を強く描いているようだ。

西郷の努力で、大久保も江戸に行けることになった。だが、大久保はそれを素直に受け入れない。どこか、屈折している。しかし、江戸に行きたいという強い気持ちにかわりはない。その背中を押すことになるのが、新しい妻・満寿ということであった。

ところで、江戸で西郷は、斉彬の薫陶を受ける。そのことによって西郷は、世界を見る目をやしなっていく……ということのようなのであるが、どうもとってつけたような印象がある。

やはり、このあたりが西郷隆盛という人物の描き方で難しいところなのであろう。一つの「人格」としての西郷と、幕末から明治維新にかけて辣腕をふるった策士(とでもいっていいだろう)としての西郷と、この二つの面を同じ人物の中に描かないといけない。だからこそ、今でも、西郷隆盛という人物は、魅力的な人物として歴史の中で語られてきているのであろうが。

それから、この当時にあっては、西欧列強と肩をならべるための富国強兵をめざす素朴なナショナリズムが、それなりに説得力のあるものとしてある。まだ、日本が、いわゆる帝国主義的侵略国家として振る舞うようになる前のことである。(ただ、私は、日本がそのような道を歩まざるをえなかったことを、今日の視点から、断罪するような視点でものを考えたくはないと思うのであるが。そのような歴史観には私はくみしない。)

このあたりも、西郷隆盛ぐらいまでは、生まれ故郷・鹿児島に対するパトリオティズム、リージョナリズム、それが、近代国家をめざすナショナリズムに結びついていて、違和感がない。まだ、『坂の上の雲』の前の時代である。これを自然なものとして描くことのできる時代と言っていいのだろう。

追記 2018-04-17
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月17日
『西郷どん』あれこれ「慶喜の本気」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/17/8828223