『雪の階』奥泉光(その二)2018-04-06

2018-04-06 當山日出夫(とうやまひでお)

雪の階

つづきである。
やまもも書斎記 2018年4月6日
『雪の階』奥泉光
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/05/8819213

奥泉光.『雪の階』.中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/tanko/2018/02/005046.html

読みながら付箋をつけた箇所。作中である登場人物の語る台詞。

「戦争が国民を創成していくからです。戦争が人民大衆をして国民に鍛え上げていく。その点からすると、日清日露の戦は、国民という云う作物の種を植え、芽を育てたと云いうる。しかし、まだ十分でない。むしろこれからですよ。最後最終的には、英米との戦いのなかで、日本人は鍛えられ、国民となっていく。」(p.265)

現在、太平洋戦争後、さらに七〇年以上が経過している。この時点からかえりみて、確かに、太平洋戦争という共通の体験をもっているが故に、日本国民は日本国民としての共同体意識がある……このことに、改めて気付かされる。

この共同体意識の中に、組み込まれたものとして、沖縄があるだろうし、また、そこから微妙に疎外されたところにいる人びととして、「在日」の人びとのことも考えなければならないだろう。そのことをわかったうえで、なお、戦争という体験の上に、日本国民がなりたっていると感じる。

『雪の階』という小説を書いた作者の意図としては、二・二六事件を経て、日中戦争が本格化し、さらに太平洋戦争になる、という歴史の経緯をふまえて語っていることになるのだろうとは思う。そのような意図をくみとるとしても、ここで指摘されていることの意味は重要であると私には思える。

さらに考えて見るならば……二・二六事件という歴史的な事件を、人びとの記憶の延長の内側にもっている、今日の我々の日本人としての共同体意識とでもうべきものがあることになる。二・二六事件について、どのような物語を語ることになるにせよ、その事件は、我々の共通の意識のもとにある、そのように作者は考えているのかもしれない。

また、二・二六事件にいたる、その前夜のできごとを物語ったこの小説が読まれるということ自体……そのなかに、歴史を共有する共同体意識とでもいうべきものがある、このように作者は考えていたのかもしれない。

共通の体験をもつものとしての国民、その〈想像〉としての共同体……言い古されたことであるかもしれないが、これは、同時に、それを文学作品として持ちうる共同体であるともいえる。その共同体意識をふまえたものとして、また、それに楔をうちこむものとして……天皇家ならざる家の血の連続とは何を意図してのことなのであろうか……『雪の階』は書かれたように感じるのである。天皇が天皇でありうるのもまた〈想像の共同体〉の生み出したものなのであろうから。