『近代日本一五〇年』山本義隆 ― 2018-04-12
2018-04-12 當山日出夫(とうやまひでお)
山本義隆.『近代日本一五〇年-科学技術総力戦体制の破綻-』(岩波新書).岩波書店.2018
https://www.iwanami.co.jp/book/b341727.html
この本、サブタイトルの「科学技術総力戦体制の破綻」に、端的に内用が凝縮されている。語られている歴史は、「科学技術」についての近代150年の歴史である。近代150年の終端にあるのは、言うまでも無く福島の原子力発電所の事故である。
この本については、まず、150年という時代、時間設定の意味が重要である。今年は、明治150年である。そのこともあって、この本のタイトルになっているのだろうが、それよりも、明治維新で時代を区切るという歴史観について、もう一つ踏み込んだ議論があってもよかったのではないかと思われる。
日本の近代を考えるとき、明治維新を一つの節目にして考える考え方があると同時に、それを準備したものとしての、近世からの様々な動き……幕府や藩の制度であったり、蘭学や国学などの学問的ないとなみであったり……を総合して考える考え方もある。
例えば、
やまもも書斎記 2017年11月24日
『「維新革命」への道』苅部直
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/24/8733452
この本などでは、19世紀ぐらからの江戸時代に、近代の萌芽をみる視点で書いてある。
まあ、確かに、「科学技術」ということを切り口にして、日本の歴史を考えるとするならば、明治維新以降の文明開化の時代が、まさに日本に「科学技術」がもたらされた時代としていいだろう。それはそうであるとしても、なぜ、そのような歴史観にたつのか、あるいは、なぜ「科学技術」の観点から考えることにするのか、そこのところについて、さらに一歩踏み込んだ記述は無いようである。
いや、これは、著者が山本義隆だから、もう当然のこととして読むことになる……このような理解を前提にしているのかもしれない。また、福島の原子力発電所の事故を終局に設定して、そこから遡って、ではなぜこのような事故をまねくいたったのか考えてみるならば……つまり、言ってみれば、先に結論ありきの議論であるとも読める。
私の読んだ印象としては、明治になってからの日本の歴史は、悪の歴史でしかない……すべて悪いのは帝国主義と軍……という歴史観には、どうかなと感じる。もし、「科学技術」に焦点をあてての近代史であるとしても、別な観点があったのではなかろうか。純粋に、知的営為としての「科学」というものがあったにちがいない。それらすべて、日本の政府と軍、帝国主義、経済優先主義にからめてしまうのは、いただけない。
日本の近代の文化史にしても、また、政治史にしても、もっと別の観点から、いろどり豊かなものをそこに見いだすことはできるにちがいない。しかし、そこを、山本義隆ならではの視点で強引に記述してしまっているという感じがしてならない。
述べられている個々の事実についてみれば、それはそのとおりであると感じるのだが、全体として、近代の歴史をどのような歴史観で記述するのか、となると、この本の歴史観には、いささか違和感を感じるのである。
追記 2018-04-13
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月13日
『近代日本一五〇年』山本義隆(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/13/8824592
最近のコメント