『背教者ユリアヌス』(二)辻邦生 ― 2018-04-14
2018-04-14 當山日出夫(とうやまひでお)
続きである。
やまもも書斎記 2018年4月7日
『背教者ユリアヌス』(一)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/07/8820656
新しい文庫本の題二冊目である。ユリアヌスの兄に謀反のうたがいがかけられる。それにユリアヌスも連座させられそうになるが、かろうじてのがれることができた。その後、ギリシアに勉学に赴き、さらには、ガリア地方に派遣されるまでを描く。
まだ、ユリアヌスの青年期である。
辻邦生の作品、登場人物に共通していえることばがあるとすれば、それは、
魂の高み
といっていいだろう。このことば、第二巻の29ページに出てくる。これは、日本を舞台にした作品でも、共通していえることである。『嵯峨野明月記』に出てくる登場人物たちのめざすものは、まさに「魂の高み」といっていいと理解できる。
やまもも書斎記 2018年4月2日
『嵯峨野明月記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/02/8816997
ユリアヌスは、キリスト教の国となったローマにおいて、異教であるギリシアの神を信仰している。そこに見いだしているのは、精神の高潔さである。あるいは、生きてあることの喜びでもある。ガリア地方において、ユリアヌスは、このように語る。
「そうだ、この歓喜は私が地上にこうしてあることから生まれているのだ。」(p.299)
まさに、自己が生きていることの内面から沸き起こってくる喜びの感情である。
ところで、この作品、古代ローマを舞台にした歴史小説なのであるが、現在の目で読むとどうなのだろうか……時代考証などにおいて、不満な点はないのだろうか、というようなことも気になったりはする。昔、私がこの小説をはじめて読んだときは、高校生の頃だった。そのころは、特に歴史的な考証というようなことは気にすることなく、ただ読んでいた。
その後、四〇年以上経過して、再び読んでみたのだが、歴史考証という観点からみれば、いくつか問題があるのかな、という気がしないではない。だが、今では、特にそのようなことも気にならなくなった。
強いて例えれば、ジブリのアニメ映画を見ているような感覚といえばいいだろうか。古代ローマという実際にあった歴史上の国としてとらえるよりも、『背教者ユリアヌス』という物語の舞台としてある、歴史上かつてどこかにあった国、それは、いくぶんの空想をふくんでいるかもしれない、そのようなものとして感じて読むようになっている。
古代のローマに時代設定した、壮大な歴史物語として読んでいる。第二冊目で、まだユリアヌスも若い。次の第三冊目を楽しみに読むことにしよう。
追記 2018-04-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月16日
『背教者ユリアヌス』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/16/8827443
やまもも書斎記 2018年4月7日
『背教者ユリアヌス』(一)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/07/8820656
新しい文庫本の題二冊目である。ユリアヌスの兄に謀反のうたがいがかけられる。それにユリアヌスも連座させられそうになるが、かろうじてのがれることができた。その後、ギリシアに勉学に赴き、さらには、ガリア地方に派遣されるまでを描く。
まだ、ユリアヌスの青年期である。
辻邦生の作品、登場人物に共通していえることばがあるとすれば、それは、
魂の高み
といっていいだろう。このことば、第二巻の29ページに出てくる。これは、日本を舞台にした作品でも、共通していえることである。『嵯峨野明月記』に出てくる登場人物たちのめざすものは、まさに「魂の高み」といっていいと理解できる。
やまもも書斎記 2018年4月2日
『嵯峨野明月記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/02/8816997
ユリアヌスは、キリスト教の国となったローマにおいて、異教であるギリシアの神を信仰している。そこに見いだしているのは、精神の高潔さである。あるいは、生きてあることの喜びでもある。ガリア地方において、ユリアヌスは、このように語る。
「そうだ、この歓喜は私が地上にこうしてあることから生まれているのだ。」(p.299)
まさに、自己が生きていることの内面から沸き起こってくる喜びの感情である。
ところで、この作品、古代ローマを舞台にした歴史小説なのであるが、現在の目で読むとどうなのだろうか……時代考証などにおいて、不満な点はないのだろうか、というようなことも気になったりはする。昔、私がこの小説をはじめて読んだときは、高校生の頃だった。そのころは、特に歴史的な考証というようなことは気にすることなく、ただ読んでいた。
その後、四〇年以上経過して、再び読んでみたのだが、歴史考証という観点からみれば、いくつか問題があるのかな、という気がしないではない。だが、今では、特にそのようなことも気にならなくなった。
強いて例えれば、ジブリのアニメ映画を見ているような感覚といえばいいだろうか。古代ローマという実際にあった歴史上の国としてとらえるよりも、『背教者ユリアヌス』という物語の舞台としてある、歴史上かつてどこかにあった国、それは、いくぶんの空想をふくんでいるかもしれない、そのようなものとして感じて読むようになっている。
古代のローマに時代設定した、壮大な歴史物語として読んでいる。第二冊目で、まだユリアヌスも若い。次の第三冊目を楽しみに読むことにしよう。
追記 2018-04-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月16日
『背教者ユリアヌス』(三)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/16/8827443
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