『言葉の海へ』高田宏(その二)2018-05-05

2018-05-05 當山日出夫(とうやまひでお)

言海

続きである。
やまもも書斎記
『言葉の海へ』高田宏
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/04/8843351

高田宏.『言葉の海へ』(新潮文庫).新潮社.2018 (新潮社.1978)
http://www.shinchosha.co.jp/book/133301/

この画像は、私が持っている『言海』の「あ」の冒頭の部分である。学生の時に古書店で買って今も持っているものである。

この本を読みながら付箋をつけた箇所を、すこし引用しておきたい。

「「日本」はすこしずつ育ってはいたが、文彦のうちにあるような「日本」は、まだこの国には根づいていない。在るべき「日本」のために、「日本辞書」と「日本文法」は、なにほどかを為し得るはずだ。そして、この仕事は余人に任せることはできぬ。いや、自分のほかに人はいない。この仕事の重さを知ること、この仕事と「日本」との関わりを明確に見ること、そして、この仕事を洋学上に築くこと、それは、この大槻文彦にしかできぬ。」(pp.245-246)

「右か左かと分ける見方からすれば、てんでんばらばらかも知れない。しかし、ひとつの思想で国は育たない。「世界」を最も知る明六社の人びとが、多様な方向に仕事をすることで、「日本」が育って行った。大槻文彦の『言海』も、そのひとつである。/或る微妙な、国家形成のかなめの仕事が、この人びとの手に成っていった。政治権力と反政府行動と、その両者だけではネーションは生まれない。必要なのは、或る微妙な、「知」を活性化した触媒である。」(p.247)

他にも多数の付箋をつけたのだが、明治の初期のナショナリズムの中に大槻文彦がいたことは確かだろう。いや、そのような人物として、著者(高田宏)は、大槻文彦を描いている。

ここで、大槻文彦のナショナリズムは、きわめて肯定的に描かれている。それが、国語辞典の編纂とストレートにむすびついている。

今日、このようなストレートなナショナリズムで、国語辞典を語ることはできなくなっている。国語辞典とは、いったい誰のための、何のための辞書であるのか、これが、改めて問われる時代をむかえている。

ひとつには、日本語という言語が、日本語を母語とする人びとだけのものではなくなってきている。外国人受け入れなどにともなって、日本語を母語としない人びとをも視野にいれる必要がおこってきている。

だが、かつて、大槻文彦が『言海』を編纂した時代は、まさに、日本語が「国語」になる、その時代でもあった。このことについて、今日の視点からは、極めて否定的にとらえる傾向が強い。だが、そのような時代、いや、それ以前の前近代、幕末期から開国の時代をむかえて、国家が成立していく過程において、日本語の辞書、文法が、自らの手によって編纂されるべきという、これは必然の意識である。

『言海』については、今日多くの研究がある。その中にあって、『言葉の海へ』は、『言海』の生まれた時代背景、明治のナショナリズムと日本語の辞書、文法ということについて、一つの見解をしめしている。ことばや辞書ということを考えていくと、どうしてもナショナリズムの問題を避けてはとおれない。『言海』とナショナリズムを考えるうえで、今後もこの本『言葉の海へ』は重要な位置を占めるものであるにちがいない。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/05/8844424/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。