『西郷どん』あれこれ「西郷入水」2018-05-08

2018-05-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年5月6日、第17回「西郷入水」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/17/

前回は、
やまもも書斎記 2018年5月1日
『西郷どん』あれこれ「斉彬の遺言」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/01/8838524

民俗学、文化人類学の観点から言うならば、一度死の体験を経て甦る、通過儀礼を経て、新たな人生がスタートする……このように解釈できる。西郷の場合、擬似的な体験というよりも、ほとんど実際に死にかけたということである。

この回のメインは、月照と西郷の関係。だが、月照が本格的に登場したのが前回ぐらいからである。いったいこの月照という僧は、何をしたという人物なのであろうか。また、斉彬との関係はどうであったのだろうか。ここのところを描いてなかったので、どうして、西郷は、そこまで月照に思い入れするのか、今ひとつ理解できないところがあった。

今のところ、西郷の中にあるのは、故・主君斉彬への忠誠心である。そして、斉彬のためということが、イコール、薩摩藩のためであり、そして、それが、さらにイコールで、日本のためと、つながっている。このところは、西郷という人物の中では、自然な感情として描かれている。

この時点では、西郷にはまだ「近代」が見えているとは思えない。斉彬の夢みたものとして、はるかかなたに茫漠としてある、ある種の理想……それは斉彬が思っていた……のようなものである。

しかし、斉興などは、そうは思っていないようだ。「近代」などということは考えていない。あくまでも、幕藩体制における薩摩藩のためと思っている。

このあたり、幕末の薩摩藩において、藩のためということが、日本のためになり、さらに、倒幕へと動き、「近代」をもたらす、そのダイナミズムを、このドラマはどう描くことになるのであろうか。ここでは、西郷という一つの人格を描きながらも、幕末の薩摩藩というものがもっていたダイナミックな政治的判断……それは、熱狂的であると同時に怜悧なものであろうが……を、どう描き出すか、このあたりが、これからの見どころかと思う。はたして、西郷の人生のゆくすえに「近代」ということが、どのように見えてくるのであろうか。

次週、西郷は、流罪になるらしい。流罪ということも、西郷の人生を振り返ってみれば、一種の通過儀礼(イニシエーション)ということになるのかもしれない。流罪の時期をどう描くか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-05-15
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月15日
やまもも書斎記 『西郷どん』あれこれ「流人 菊池源吾」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/15/8851445