『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その二)2018-05-18

2018-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

誰がために鐘は鳴る(上)

続きである。
やまもも書斎記 2018年5月14日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/14/8850880

上下巻を読み終わって感じることを書けば、この小説は、戦争小説である、ということである。戦争のことを描いた文学作品は、数多くある。その中にあって、この『誰がために鐘は鳴る』は、戦争の大義と、それと同時に、空しさを描いた傑出した作品であると思う。

戦いに参加するものは、それなりに大義があってのことである。それは、敵であろうと、味方であろうと違いは無い。戦争の大義のもとに人は戦う。そこには、昂揚した気分がある。と同時に、どうしようもない虚無感のようなものもある。

いったい何のために戦うのか、自分の人生にとって戦争とは何であるのか、常に問いかける。そこに、明確な答えがあるというわけではない。だが、問いかけずにはおられない。また、戦争の大義も、立場によってそれぞれに異なる。

一応、この作品では、反ファシストという立場で、主人公(ジョーダン)は行動しているのだが、他の登場人物がすべてそうであるかというとそうでもないようだ。作中に出てくるジプシーなどは、いったい何のために戦っているのであろうか。ただ、戦いが日常の中にあって、それを生きているだけのようにも思える。

ところで、この小説、最後のクライマックスは、ジョーダンの受けた命令……橋の爆破……と、その後のことであろう。読んでいって、このクライマックスのシーンには、主人公に共感して読んでしまっていることに気付く。そして、この小説の最後のシーン、負傷した主人公の煩悶にうなずくところがある。

この小説のようではない、別の結末を考えることもできるのかもしれない。だが、この小説に描かれた結末によって、戦争の中に生きることの意義と空しさのようなものを、どことなく感じる。

これは、単なる戦争小説でも、反戦小説でも、厭戦小説でもないと思う。戦いの中に生きざるをえない人間の、精神の昂揚感と虚無感を同時に語っている。すぐれた戦争小説であると思う。

追記 2018-05-21
この続きは、
やまもも書斎記 2018年5月21日
『誰がために鐘は鳴る』ヘミングウェイ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/05/21/8856127