『老いの荷風』川本三郎2018-06-30

2018-06-30 當山日出夫(とうやまひでお)

老いの荷風

川本三郎.『老いの荷風』.白水社.2017
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b285611.html

去年、出た時に買っておいた本である。その後、なんとなく読まずに本の中に埋もれてしまっていた。部屋の本を少し整理して出てきたので、改めて読んでみた。これも、読んで、しばらくおいてあった。

特に、読後感などを書くのに難しいという本ではないと感じるのだが、しかし、なかなかこの本のことについて書こうという気にならなかったのは、荷風という存在による。私は、荷風は好きである。このごろでは、荷風それ自体を読むよりも、荷風について書かれた書物などを読むのが多くなってきた。この本もその中の一つ。

荷風について書かれた本について書こうと思うと、どうしても荷風に触れることになる。それが、このごろ、なんとなく気が重く感じるようになってきた。

荷風は、「老い」を描き得た作家であると思っている。若くより、自分自身を、〈亡命者〉〈隠遁者〉とでも思い定めた、いわば、この世から一歩さがったところから世間を見る、いわば老境のまなざしで、その作品を残したと言っていいだろうか。この意味において、自分自身が年をとって、さて、自分の老境とでもいうべきものを、どう考えるか、荷風を読むと、自分のことに思いがいってしまうのである。これが、荷風について書くのをためらわせている遠因だろうかと、自らをかえりみて思う次第である。

ところで、この本を読んで、付箋をつけた箇所をすこし引用しておきたい。

「自分一人の感慨に浸り切る。散歩は荷風にとっては、きわめて孤独な文学的行為だったといえるし、また、徹底した、個の意識に支えられていたという点で、町の隠居の散歩とは明らかに違った近代人の知的行為でもあった。」(p.126)

「『日和下駄』が単なる散歩随筆、東京案内に終わっていないのは、その根底には、自分はついに見る人でしかないという荷風の断念があるからである。」(p.129)

このような意味において、荷風の生き方は、単なる「老い」ではない。そこには、世間からあえて身をしりぞけた覚悟とでもいうべきものがあることになる。荷風が東京の「江戸」「下町」に心ひかれたことは、言うまでもないことである。が、それも、近代の西欧を体験を経た後のことであることを忘れてはならないだろう。

たまに東京に行って街をあるいても、あるいは、近辺の都市として京都の街をあるいても、私の場合、もはや荷風がかつて東京をあるいたような感覚で、街の風景を見ることはできない。時代の違いか、立場の違いか、考え方の違いか。ともあれ、荷風のように生きることは出来ないだろうと感じながらも、その一方で、近代という時代に生きた荷風という一人の人物の生き方に、ひかれるところがあるのも、確かなことである。

荷風のような、知的営為……その中には、反近代の感覚をふくむ……としての散歩は、私のよくなしうるところではないと、感じている。

追記 2018-07-02
この続きは、
やまもも書斎記 2018年7月2日
『老いの荷風』川本三郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/02/8907507