『西郷どん』あれこれ「禁門の変」2018-07-24

2018-07-24 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年7月22日、第27回「禁門の変」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/27/

前回は、
やまもも書斎記 2018年7月17日
『西郷どん』あれこれ「西郷、京へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/17/8919788

今回は、禁門の変。

これまでNHKの大河ドラマでは、幾たびか禁門の変を描いてきた。近年では、『八重の桜』を思い出す。それから、『花燃ゆ』にも出てきただろうか。ともあれ、その時々で、どちらの側に「正義」があるのか、よくわからないといえる。

結果的に「勝てば官軍」である。しかし、この事件の時には、まだ歴史の行方はわからない。薩摩か、長州か、会津か、どの立場によって見るかで、描き方は様々であろう。

今回の禁門の変は、薩摩と長州がメイン。しかし、結果的に戦闘が起こったことは確かだとしても、西郷も、また、長州の桂小五郎も、極力、武力衝突回避に向けて動いていたと描かれている。この回で描かれた西郷は、薩摩藩の軍の総指揮官でありながら、非戦論者でもあるようだ。このあたり、西郷が主人公のドラマとはいえ、理想化しすぎているように思えてならない。

それから、見ていて気になったこととしては、このドラマは、武士の世界を描いている。幕末から明治維新の立役者は、基本的に武士である。では、その武士のエトスとでもいうべきものは何であろうか。主君に対する忠誠心か。しかし、西郷は、薩摩藩の主君、久光に対して、さほどの忠誠心を持っているようには描かれていない。また、西郷と一橋慶喜の関係は何であろうか。主従関係ではない。これは、現代的な解釈を加えるならば、武士と武士との「友情」とでもいうべきもののように思われてならない。

西郷が武士として行動するのは何故か。それは、自身が武士であるからである。この同語反復的、自家撞着的な自己規定のなかで、西郷の働きはあるようである。

そして、西郷吉之助をはじめ、他の登場人物、一橋慶喜、それから、(次回から本格的に登場するようだが)勝海舟、坂本竜馬……これらの人物をつないでいるのは、ナショナリズムを核とした、連帯意識……同志とでもいおうか……であるように思える。そして、このドラマでは、このような登場人物には、草莽の語はふさわしくない。

このドラマ、封建的な武士のエトスと、近代的な市民的ナショナリズム、この二つの意識を、どのようにおりまぜて幕末から明治維新を描くことになるのだろうか。たぶん、「西郷」という人格のなかに、これらが融合した何かを描くことになるのかと思っている。

これから先のこと……西南戦争を予見してみるならば、斉彬の遺志をつぐ者としての西郷の「理想」……これは、封建的忠誠心と、明治維新において理想化されたナショナリズム……この矛盾を背負ってしまうところに、西郷という「人格」の悲劇があることになるのかもしれない。

追記 2018-07-31
この続きは、
やまもも書斎記 2018年7月31日
『西郷どん』あれこれ「勝と龍馬」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/31/8929144