『うたげと孤心』大岡信2018-09-01

2018-09-01 當山日出夫(とうやまひでお)

うたげと孤心

大岡信.『うたげと孤心』(岩波文庫).岩波書店.2017 (集英社.1978)
https://www.iwanami.co.jp/book/b309286.html

この本、1978年に最初の版が出て、その後、岩波の同時代ライブラリー版などでも出ている。1978年というと、私が、ちょうど慶應の国文の学生であったころになる。その後のこともふくめて、なぜかこの本は未読であった本である。

読んでみての感想めいたものを述べておくならば……まず、この本の内容は、1970年代までの国文学の研究成果を踏まえた内容になっているということはあるだろう。その後の、国文学、日本文学での研究の動向ということはあるにはあるのだろうが、これはこれで、その時点での研究水準を把握した内容になっていると感じる。

そのうえで、読んで思ったこととしては次の二点になるだろうか。

第一には、この本の主題……〈うたげ〉と〈孤心〉であるが……これは、折口信夫の言っていることに近い。これは、たまたま私が、慶應の国文というところで、折口信夫の影響の強い環境で勉強したせいもあってのことかもしれない。その点を割り引いて考えるとしても、この本で、大岡信の語っていることは、基本的に、折口信夫が述べていることだと感じるのである。

第二には、(これはこの本そのものということではないのだが)、文庫本の解題を書いているのは、三浦雅士である。その解題につぎのようにあるのが、目についた。

「しかし、芭蕉と道元を引き比べた論はほとんどないと私は思う。」(p.386)

唐木順三がいるのではないだろうかと思った。その『日本人の心の歴史』『無常』『無用者の系譜』などの一連の著作では、道元に触れ、また、芭蕉にも言及してある。

やまもも書斎記 2017年8月7日
『日本人の心の歴史』唐木順三
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/07/8641546

ただ、唐木順三のことを知らなかっただけなのか、あるいは、もう唐木順三は忘れられてしまった人になってしまっているのか。

以上の二点が、岩波文庫版の『うたげと孤心』を読んで感じるところである。

読みながら付箋をつけた箇所を一箇所だけ引用しておくと、

(古今集の恋の歌にふれて)「驚くに足ることのひとつは、これだけの量の歌を収めながら、ここにはおよそ恋の歓喜を歌いあげた歌が見当たらないことである。」(p.97)

何が書かれているか、何が歌に詠まれているかは、読みさえすればわかることである。だが、何が書かれていないか、歌に詠まれていないかということに気づくことは、きわめて貴重な発見である。今日の、和歌研究の分野で、この大岡信の指摘が、どのように考えられているのか、その分野にうとい私にはわからない。

ところで、この本を読んでみて思うことは……近年では、日本の古典文学を現代の視点から評論して論じるという人が少なくなった、という思いである。かつては、唐木順三とか、山本健吉とか、古典文学を、現代の視点から読み解いて、解説する書き手がいたものである。このような人が、いなくなってしまっている。いや、いるにはいるのかもしれないが、存在感のあるものとして、私の読書の範囲に入ってこないのである。

この意味では、笠間書院が近年出した、「日本歌人選」のシリーズは貴重なものといえるかもしれない。

笠間書院 日本歌人選
http://kasamashoin.jp/2011/02/post_1689.html