『本居宣長』相良亨 ― 2018-09-10
2018-09-08 當山日出夫(とうやまひでお)
相良亨.『本居宣長』(講談社学術文庫).講談社.2011 (東京大学出版会.1978)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211536
本居宣長そのものを読むべきなのだが、その周辺を読んでいる。「本居宣長」のタイトルをもつ本である。この本も、タイトルは、『本居宣長』になっている。
やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701
やまもも書斎記 2018年9月3日
『本居宣長』子安宣邦
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300
読んでの印象は……これはこれで、ひとつの宣長論になっている、ということ。本書の基軸としてあるのは、〈もののあはれ〉と〈神道論〉である。
一般に、宣長について論じるときの課題となることは、この二つ……〈もののあはれ〉と〈神道論〉である。それに、それに近づくための、実証的な文献学的方法論、となるであろうか。
この本では、宣長の学問的方法論、文献実証主義について触れるとろこはない。そのかわり、若い時の〈もののあはれ〉論が、どのようにして、後年の〈神道論〉につながっていくのか、そのつながりを論じてある。
どちらかといえば、かなり理性的に宣長の思想というものが捉えられている。宣長を絶賛するでもないし、特に否定的な立場にたつわけでもない。その人生の歩み、京都遊学のころから説きおこして、〈もののあはれ〉とは何であるか、そして、それを論じることが、どのようなプロセスで、『古事記伝』に見られる、後年の〈神道論〉につながっていっているのか、順番にテキストを解読する方法で、論じてある。
先に結論を示して、なぜこのように考えることになるのか、という論じ方ではなく、順番にテキストを読んでいくことで、読み解いてあるので、読んでいって、ややまどろしくある。が、読み終わって、なるほど、〈もののあはれ〉を論じること……人間のこころの素直な状態を理想化すると言っていいだろうか……が、〈神道論〉につながっていくことが、よく理解される。
では、そのような思想の形成が、どのような学問的方法論に支えられていたのか……今日の目からは、このところが気になることであるが、この本では、そこのところには踏み込んでいない。あえてふれることを避けているかのごとくである。が、これは、これとして、一つの方針であろう。
読みながら付箋をつけた箇所を一つ引用しておくと、
「後年の彼が強調したところの、ミチなどというものもただ嘗ては道路の意のみであり、道徳、道義、天道、人道、心道、道理などという意味はなかったのだという主張も、すでにこの『石上私淑言』に現れている。道々しきものもなく、「物のあはれ」をしる人々が穏しく生きた世界、それが神代であったのである。」(p.142)
本書に言わんとするところは、ここに端的に示されている。
それから、次のような箇所、
「われわれにとってとって、したがって、問題なのは、宣長における漢意の否定という仕方における「理」の否定である。西洋近代思想の知識を輸入して、それによってこの宣長を批判することは容易であるが、単なる知識ではなく、真にわれわれの内面に、宣長的思想の洗礼あるいはわれわれの内にある宣長的発想の資質をこえて、「理」に対する把握を真に確立しえないかぎり、宣長を軽々に批判することはできないであろう。宣長にとどまることはできないが、超えることは今日においてなお容易なことではない。」(p.216)
宣長の魅力、そして、それを超えることの難しさ……これは、小林秀雄の『本居宣長』に十分に書き尽くされていることだと思う。宣長を考えることは、現代のわれわれの古代研究の方法論、それが、近代的な文献実証主義であるとしても、それを自覚的に再確認していく仕事になるはずである。この意味では、宣長の学問の方法論について、考えてみる必要がある。
残る『本居宣長』は、田中康二(中公新書)、熊野純彦、そして、村岡典嗣、である。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211536
本居宣長そのものを読むべきなのだが、その周辺を読んでいる。「本居宣長」のタイトルをもつ本である。この本も、タイトルは、『本居宣長』になっている。
やまもも書斎記 2018年3月15日
『本居宣長』小林秀雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701
やまもも書斎記 2018年9月3日
『本居宣長』子安宣邦
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300
読んでの印象は……これはこれで、ひとつの宣長論になっている、ということ。本書の基軸としてあるのは、〈もののあはれ〉と〈神道論〉である。
一般に、宣長について論じるときの課題となることは、この二つ……〈もののあはれ〉と〈神道論〉である。それに、それに近づくための、実証的な文献学的方法論、となるであろうか。
この本では、宣長の学問的方法論、文献実証主義について触れるとろこはない。そのかわり、若い時の〈もののあはれ〉論が、どのようにして、後年の〈神道論〉につながっていくのか、そのつながりを論じてある。
どちらかといえば、かなり理性的に宣長の思想というものが捉えられている。宣長を絶賛するでもないし、特に否定的な立場にたつわけでもない。その人生の歩み、京都遊学のころから説きおこして、〈もののあはれ〉とは何であるか、そして、それを論じることが、どのようなプロセスで、『古事記伝』に見られる、後年の〈神道論〉につながっていっているのか、順番にテキストを解読する方法で、論じてある。
先に結論を示して、なぜこのように考えることになるのか、という論じ方ではなく、順番にテキストを読んでいくことで、読み解いてあるので、読んでいって、ややまどろしくある。が、読み終わって、なるほど、〈もののあはれ〉を論じること……人間のこころの素直な状態を理想化すると言っていいだろうか……が、〈神道論〉につながっていくことが、よく理解される。
では、そのような思想の形成が、どのような学問的方法論に支えられていたのか……今日の目からは、このところが気になることであるが、この本では、そこのところには踏み込んでいない。あえてふれることを避けているかのごとくである。が、これは、これとして、一つの方針であろう。
読みながら付箋をつけた箇所を一つ引用しておくと、
「後年の彼が強調したところの、ミチなどというものもただ嘗ては道路の意のみであり、道徳、道義、天道、人道、心道、道理などという意味はなかったのだという主張も、すでにこの『石上私淑言』に現れている。道々しきものもなく、「物のあはれ」をしる人々が穏しく生きた世界、それが神代であったのである。」(p.142)
本書に言わんとするところは、ここに端的に示されている。
それから、次のような箇所、
「われわれにとってとって、したがって、問題なのは、宣長における漢意の否定という仕方における「理」の否定である。西洋近代思想の知識を輸入して、それによってこの宣長を批判することは容易であるが、単なる知識ではなく、真にわれわれの内面に、宣長的思想の洗礼あるいはわれわれの内にある宣長的発想の資質をこえて、「理」に対する把握を真に確立しえないかぎり、宣長を軽々に批判することはできないであろう。宣長にとどまることはできないが、超えることは今日においてなお容易なことではない。」(p.216)
宣長の魅力、そして、それを超えることの難しさ……これは、小林秀雄の『本居宣長』に十分に書き尽くされていることだと思う。宣長を考えることは、現代のわれわれの古代研究の方法論、それが、近代的な文献実証主義であるとしても、それを自覚的に再確認していく仕事になるはずである。この意味では、宣長の学問の方法論について、考えてみる必要がある。
残る『本居宣長』は、田中康二(中公新書)、熊野純彦、そして、村岡典嗣、である。
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