『西郷どん』あれこれ「慶喜の首」2018-09-25

2018-09-25 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年9月23日、第36回「慶喜の首」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/36/

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月18日
『西郷どん』あれこれ「戦の鬼」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/18/8961785

正直にいえば、ほとんどこの番組を見ることから脱落しそうになっている。見ていてつまらない。だが、なんとか踏みとどまっているというところか。

なぜ、つまらないと感じるのだろう。幕末の歴史であるから、これまでいろんなドラマや小説に描かれてきている。西郷自身も、様々に描かれている。だから、ドラマとして次にどうなるのかは、すでに視聴者には分かっている。先が読めない、ということはない。

その中で、魅力的なドラマにしようとするならば、よほど、登場人物の描写が魅力的であるか、これまでとは違って斬新な視点から歴史を見るか、ということがもとめられよう。そのどちらにも、この『西郷どん』は、成功していないように思えてならない。

西郷吉之助……鈴木亮平……は、頑張っているとは感じるのだが、それが、西郷という人物の魅力につながっているかというと、そうでもない。何としてでも徳川幕府を倒し、慶喜を排除しなければならない、このように西郷は思いつめていることは、とにかく分かるのだが、しかし、何故、そのように思うに至ったのか、そこのところの理由の説明がない。よくわからないのである。説得力をもって描かれているとは感じられない。

また、幕末のドラマを、「官軍」の側から描くということとしては、自ずと、歴史の見方も決まったものになってしまう。だが、主軸はそこにあるとしても、薩長・官軍以外の別の視点をもちこんで、歴史を複眼的に描くことはできなかったものかと思う。

また、ナショナリズムというものをどう描くかということもある。結果的に日本は、欧米の侵略をうけることなく明治維新を迎えることになる。そのときの国際情勢と、日本国内における各立場のおもわく、そのなかにあって、日本のナショナリズムというべき動きをダイナミックに描くことに、どうもつながっていっていない。ただ、慶喜も日本の国の行く末を思っていた、ということが出てきていたのだが。

次週は、いよいよ江戸城無血開城……このドラマの後半の山場を迎えることになる。ともかくどのように、西郷や勝を描くことになるのか、見てみることにしよう。

追記 2018-10-09
この続きは、
やまもも書斎記 2018年10月9日
『西郷どん』あれこれ「江戸無血開城」