『本居宣長』熊野純彦(内篇)2018-09-29

2018-09-29 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

熊野純彦.『本居宣長』.作品社.2018
http://www.sakuhinsha.com/philosophy/27051.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年9月22日
『本居宣長』熊野純彦(外篇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/28/8965901

この本の後半、内篇になって、著者(熊野純彦)は、本居宣長の内側へとはいっていく。その著作を読み解きながら、その思考のあとをたどろうとしている。このとき、先行する本居宣長研究も膨大なものになる。この本の巻末には、そのリストが掲載になっている。

もちろん、本居宣長の著作も膨大な量になる。そして、それを論じようとするならば、『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』をはじめとして、古代から中世、あるいは、近世までの和歌の歴史に通暁しておく必要があるだろう。無論、『源氏物語』は必読である。そして、『古事記』と『古事記伝』がある。(おそらく、『古事記伝』を全巻にわたって精読したという仕事をした人は、ほとんどいないと言っていいかもしれない。近年のものとしては、神野志隆光の『本居宣長『古事記伝』を読む』全四巻がある。この本のことについては、追ってふれることにしたいと思っている。)

本居宣長の著作……『石上私淑言』『紫文要領』それから、『古事記伝』などについては、ひととおり知っておく必要がある。『玉かつま』も読むべきである。とにかく、本居宣長を論じるということは、大変な仕事であることは、国語学という学問の片隅で仕事をしてきた人間としては、実感する。

この意味で読んでみて、この本、熊野純彦の『本居宣長』は、そのあつかっているテキスト、資料の範囲についていえば、きちんと読み込んである、そのような印象をうける。

この内篇で、著者(熊野純彦)が描き出している本居宣長のイメージは、非常に平明で理性的である。古代の神道信仰について言及するときでも、本居宣長としては、それなりの理性的判断で、そう信じて、そう語っている、というように理解される。

内篇においても、一般の本居宣長の論をふまえて、まず、「もののあはれ」にふれる。それから、『古事記伝』における古代の信仰世界にはいっていく。ここのながれは、あくまでも、本居宣長の著作に即しながら、また、『源氏物語』などに言及しつつ、きわめて冷静な筆致で、その思想のあとをたどっている。これは、古代の神道においても、同様である。

が、読み進めていくと、最後の方にきて、『古事記伝』から踏み込んで『古事記』を読んでいく、というようになってくる。古代文学としての『古事記』の叙述そのものにふれるところが多くなってくる。ここは、やはり、『古事記伝』を読みながら『古事記』そのものの世界に入り込んでいるということになるのであろう。

きわめて、合理的で(今日の目からみれば、そうではないところもあるかもしれないが)、明晰な、本居宣長のイメージが、この本では展開される。そして、その一方で、文献の解読にのめり込んでいく研究者としての本居宣長の心情にふれるにいたる。ここは、人文学にかかわる研究者として、共感できるものとしての、本居宣長ということになる。たぶん、この『本居宣長』を読んで、今日の読者が感じるものとしては、研究者としての熊野純彦が、本居宣長に共感し、共鳴していく部分においてであろう。そして、それは、きわめて理性的に読めるものとして叙述されている。

だが、最後にきて、研究者の情念とでもいうべき部分にふれることになる。『うひ山ぶみ』の一節を引用したあとで、このようにある。

「この一文から本居の静寂主義しか読みとることのできない読者がいたとすれば、その者はしょせん本居の思考と無縁なままにとどまる。一節をむすぶことばに震撼されることがないのなら、その者はおよそ宣長に典型をみる、学知のいとなみの無償な立ちようとは所縁がないままでありつづけることだろう。」(p.871)

そして、最後、この本は、本尾宣長の遺言でふいに終わっている。小林秀雄の『本居宣長』を意識してのことだと思われる。

追記 2018-10-01
この続きの「本居宣長」は、
やまもも書斎記 2018年10月1日
『本居宣長』芳賀登
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/01/8967240