『本居宣長』芳賀登2018-10-01

2018-10-01 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長

芳賀登.『本居宣長-近世国学の成立-』.吉川弘文館.2017 (清水書院.1972)
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b279167.html

「本居宣長」の続きである。
やまもも書斎記 2018年9月29日
『本居宣長』熊野純彦(内篇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/29/8966263

かなり以前に出た本の再刊である。これも「本居宣長」のタイトルで刊行されたもの。

なぜ、私が、今になって「本居宣長」を読んでいるかというと……近代になってからの国文学、国語学という研究分野の成立に、本居宣長が深く関与しているということを、確認したいためである。あるいは、逆説的にいえば、今、本居宣長を論じる、その方法論が、まさにかつて本居宣長が、『源氏物語』を読み、『古事記』を読んだ、その方法論によっている、このことの確認でもある。それほどまでに、国文学、国語学、さらには、現代の日本文学、日本語学の研究領域において、本居宣長の影響は及んでいると感じる。

さて、この芳賀登の『本居宣長』であるが、これは、歴史学者が書いた本居宣長の評伝であり、近世における国学という学問の成立過程を論じてある。

付箋をつけた箇所を引用しておく。

「文献学はその意味で幽玄不可思議な神道の存在を前提に考えられたのである。」(p.51)

「ただ今日、宣長学の本質を古道学に求めるか、それとも主情主義文芸に求めるかという形で問題をたてる人がいるが、これは両者がはじめから統一するもののない双曲線として位置づけるものであるだけに、かかる見解をとることはできない。」(p.54)

この本は、上述の引用のように、かなり割り切った考え方で本居宣長の学問をみている。

とはいえ、今日、二一世紀の現代において、本居宣長を論じようとするならば、その神道論と、文献実証主義の方法論と、さらには、「もののあはれ」の文芸論、これらを、総合的にとらえるには、どうすればよいか、ということになる。あるいは、今日の学問において、これらのうち、何を継承していて、何を継承していないか……無論、神道論を継承していないことになるのだが……ここのところにふみこんで考えることが必要になる。少なくとも、国文学、国語学という研究分野のことについて考えて見るならば、このような自覚的反省の視点が必要になってくるだろう。

さらに、本居宣長についての本、そして、本居宣長の書いたものを、読んでいきたいと思っている。

『コンビニ人間』村田沙耶香2018-10-02

2018-10-02 當山日出夫(とうやまひでお)

コンビニ人間

村田沙耶香.『コンビニ人間』(文春文庫).文藝春秋.2018 (文藝春秋.2016)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167911300

2016年、第155回の芥川賞作品である。文庫本で出たので買って読んでみた。

このごろでは、芥川賞だからといって買って読むということがなくなってきているのだが、しかし、最近、やはり読んでおくべきかなという気がしてきている。その時代において、何を文学と考えて享受しているか、何が文学として書かれているか、そのことを確認するためである。

で、この作品であるが……読んで面白い、まず、これにつきる。

描いている人物は、コンビニでアルバイトを続けてきて、もはやコンビニで働くことにしか自己の存在意義を見いだせなくなった……と言っていいだろう……ある一人の女性の物語である。

この本を読んで感じたことは、まさに「現代」という時代と人間を描いている、ということ。

思い返せば……私の生活の中にコンビニというものが登場してきたのは、学生の頃だったろうか。セブンイレブンが、住まいしている近所にできたのを記憶している。この当時、その名前のとおり、朝7時から、夜11時までの営業であった。それでも、こんな時間に営業している店舗があるのかと、ある種のおどろきをもって受けとめたものである。

その後、日本の社会は、コンビニなしでは成立しない社会になってしまっている。学生にレポートを書かせても、「コンビニに行ってきていいですか」と言って教室を出て行く学生がいる。パソコン教室で、目の前にパソコンがあり、プリンタもあるのに、コンビニに行ってプリントするのである。(たぶん、書いているのは、スマホで書いているとおぼしい。)

この小説は、コンビニで働く立場に視点をおいて書いてある。これは、たしかに、小説としてはそうなるのだろうと思うのだが、一方で、コンビニの利用者、消費者の立場もあるだろう。今の時代、コンビニを利用できない人間は、社会性不適格と言っても過言ではない。私は、読みながら、利用者としての自分の立場のことを思いながら読んだ。

このようなことは、すでに他の人が多く書いていることであろうと思うのだが、読んでいて、ふとカフカの小説を読んでいるような感じがした。どうしようもない不条理が目の前にあるのだが、その前で自分は何者なのか問いかけることになる。コンビニは、現代の「城」なのかもしれない。

文学というものが、時代とともにあり時代を描くものであるとするならば、まさに、この『コンビニ人間』は、今という時代と社会を描いている。そして、この作品は、おそらく現代という時代を超越したところにまで、その射程がおよんでいると感じさせる。

彼岸花2018-10-03

2018-10-03 當山日出夫(とうやまひでお)

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月26日
雨の日の庭
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/26/8965160

水曜日なので花の写真。今日は、彼岸花である。この季節、ちょうど秋の彼岸のころになると、我が家の近辺のところどころで花を咲かせる。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見てみる。

ヒガンバナ科の多年草。中国原産といわれ、古く日本に渡来し、本州以西の各地の土手、路傍、墓地などの人家の近くに生え、また、まれに栽培もされる。

とあり、さらに説明がある。別名が多い。日本国語大辞典に掲載のものとしては、まんじゅしゃげ、しびとばな、てんがいばな、ゆうれいばな、すてごばな、はみずはなみず、などが載っている。

用例は、和漢三才図会(1712)に、「石蒜(しびとばな)〈略〉俗云死人花、又云彼岸花」とあるよしである。また、北原白秋の「思ひ出」(1911)に、「曼珠沙華」と書いて「ひがんばな」とルビがあるらしい。

『言海』にもある。

「彼岸花」の項目を見ると、「曼珠沙華」に同じとある。

マンジュシャげ 名 曼珠沙華 曼珠沙、梵語、赤華ト譯ス 草ノ名、原野、又、墓地ナドニ多シ 一根ヨリ數葉ヲ生ズ、水仙ヨリ狭クシテ一尺許、綠黑ニシテ、厚ク固ク光ル、夏枯レテ、秋ニ至リ、圓キ莖ヲ出スコト、一尺餘、彼岸ノ頃、頂ニ數花蔟リ開ク、深紅六瓣ニシテ細ソク、返リ卷ク、實、熟スレバ、莖、腐リ、新葉ヲ生ジ、冬ヲ歷テ枯レズ、根モ水仙ニ似テ、茶褐ナリ、此草、諸國、方言甚ダ多シ。テンガイバナ。トウロウバナ。ヒガンバナ。カミソリバナ。キツネノカミソリ。シビトバナ。イウレイバナ。ステゴバナ。

『言海』のころ、「彼岸花」よりも「曼珠沙華」の方が、普通の言い方であったようである。

彼岸花

彼岸花

彼岸花

彼岸花

彼岸花

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-10-10
この続きは、
やまもも書斎記 2018年10月10日
マルバルコウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/10/8970775

『天子蒙塵』(第四巻)浅田次郎2018-10-04

2018-10-04 當山日出夫(とうやまひでお)

天子蒙塵

浅田次郎.『天子蒙塵』(四).講談社.2018
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000313639

続きである。
やまもも書斎記 2018年6月28日
『天子蒙塵』(第三巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/28/8904909

このシリーズは、『蒼穹の昴』以来、ずっと読んできている。そして、思うことは、だんだん面白くなくなる。また、この『天子蒙塵』に限っても、巻を追うごとに、つまらなくなっていく。浅田次郎は、もっと面白い小説を書くことのできる作家だったはずなのだが。

この第四巻でも、登場人物は虚実入り乱れている。張学良、溥儀といった実在の人物も出てくれば、梁文秀に、春児といった、『蒼穹の昴』からの人物も出てくる。そして、三巻から登場した、日本から駆け落ちしてきてきた男女、それに、二人の少年も。さらには、永田鉄山も、石原莞爾も出てくる。

だが、それぞれの話しが交わることがないのである。独立した話しとして展開して、他の話しとかかわることが基本的にない。この小説……特に第四巻に限らず、第一巻から思い出してみても……一貫したストーリーが貫かれているということが、読み取れないのである。

はっきり私の感じたことをのべるならば、事実は小説よりも奇なり……NHKの「映像の世紀」に登場した溥儀の姿に、この小説は及ばない。

『蒼穹の昴』、『珍妃の井戸』ぐらいの時代設定であるならば、虚構の人物を自在にあやつりながら、小説世界を構築できる。だが、時代が、だんだん近現代に近づいてくると、満洲国のことになってくると、フィクションの世界だけで描くことは無理があるとしか感じられない。

ところで、船戸与一の『満州国演義』シリーズは、単行本が完結した時にまとめて買って全部通して読んだのであるが、この小説であっても、登場人物を四人の兄弟に分散しないと、〈満州国〉、さらには、〈大東亜戦争〉を描くことができない。

あるいは、ここは、もとの『蒼穹の昴』の時点に帰って、梁文秀や春児といった登場人物、その、係累の人物を活躍させることで、壮大なフィクションの世界を構築することが、もし、できたなら、そのような方向をとるべきだったのではないだろうか。

はっきりいって、フィクションとしての小説が、歴史に、事実に、負けてしまっているのである。

『夜光亭の一夜』泡坂妻夫2018-10-05

2018-10-05 當山日出夫(とうやまひでお)

夜光亭の一夜

泡坂妻夫.末國善己(篇).『夜光亭の一夜-宝引の辰捕者帳ミステリ傑作選-』(創元推理文庫).東京創元社.2018
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488402211

東京創元社から、このところ刊行になっている、ミステリの選集の一つ。これは、泡坂妻夫の作品集である。

私が、泡坂妻夫を読み始めたのは、東京に出て大学生になってからのことになるだろうか。「幻影城」で世に出て活躍したミステリ作家である。私が学生として、神保町を歩いていたころだと、ゾッキ本(今ではこのような言い方をしなくなったようだが)として、かなりの本が売られていた。そのなかに、「幻影城」もあったかと記憶する。

その後、『みだれからくり』を読んだり、亜愛一郎のシリーズを読んだりしたものである。

この「縫引の辰」シリーズは、どうだったろうか。ともあれ、今回、創元推理文庫でまとめて読めるようになったので、買って読んでみた(再読かもしれないが)ものである。

泡坂妻夫は、とにかくうまい、としかいいようがない。ミステリの醍醐味がたっぷりとつまっている。この「宝引の辰」シリーズは、探偵役は、岡っ引きの「宝引の辰」であるが、語り手は、作品ごとにちがっている。いずれも、第一人称の語り手が登場するが、きまって、ある事件にかかわりをもった当事者の一人という設定である。

そして、ミステリ好きには、なるほど、あの作家のあの作品へのオマージュなのか……と感じさせるところが、いくつかにある。

余計なことながら、この『夜光亭の一夜』を読みながら、知らないことばが出てきて、日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)で、確認しながら読んだ。たとえば、「希有けちりん」(p.244)、「倣(ほう)」(p.290)、「川垢離(せんごり)」(p.308)、「表徳(ひょうとく)」(p.313)、「藁蛇(わらじゃ)」(p.320)、「春山欲雨(しゅんさんよくう)」(p.347)、「一巻(いちまき)」(p.448)、などである。

それから、捕物帖(あるいは、「捕者帖」と書く)としての、基本に忠実である。江戸の景物の描写がいい。季節感もある。また、この泡坂妻夫ならではのことだが、着物やそれにある紋所のことなどについては、信頼をおいて読むことができる。

調べてみると、泡坂妻夫の作品のかなりは今でも新しい本でよめるようだ。これから、順番に読んで(再読)みようかと思っている。

『「宣長問題」とは何か』子安宣邦2018-10-06

2018-10-06 當山日出夫(とうやまひでお)

「宣長問題」とは何か

子安宣邦.『「宣長問題」とは何か』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2000 (青土社.1995)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480086143/

本居宣長についての本を読んでいる。

前回は、
やまもも書斎記 
『本居宣長』芳賀登
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/01/8967240

『「宣長問題」とは何か』は、以前に買ってしまってあった本である。買った時に、ざっと目をとおしたかと思うのだが、今回、改めて読み直してみることにした。

著者(子安宣邦)の言う「宣長問題」とは、次のようなものである。

「私がいま宣長を再浮上させ、いま問わなければならぬ「宣長問題」をこのように問題構成し、このように論じようとするのは、私たちの「日本」についてのする言及が、「日本」という内部を再構成し、「日本人」であることをたえず再生産するような言説となることから免れるためである。」(p.15)

そして、つづけて次のようにある、

「国語学が宣長と「やまとことば」の神話を共有しながら、〈国家語=国語〉をたえず再生産する近代の学術的言説であった(以下略)」(p.15)

このことについては、私としても特に異論があるということではない。いや、国語学、日本語学という学問の片隅で仕事をしてきた人間のひとりとして、このようなことには、自覚的であったつもりでいる。(そのうえで、あえて、自分の勉強してきたことを、国語学と言いたい気持ちでいるのだが。)

近代の国語学、日本語学、特にその歴史的研究という分野においては、基本的に宣長の国学の流れをうけつぎながら、その神道論だけは排除してきた歴史……端的にいえば、このようにいえるかもしれない。このような歴史を概観しながらも、であるなば、なおのこと、その学問の出自ということについて、考えてみなければならないと思う。

ところで、この本を読んで、納得のいったことの一つが契沖の評価。

「こうして契沖が再発見され、彼による国学の学問的な〈始まり〉の意義が、国学的道統の〈初祖〉荷田春満に代って強調されることになるのである。」(p.124)

今日から振り返ってみたとき、宣長の師匠は、賀茂真淵であり、さらに、その文献学的方法論の淵源をたどれば、契沖にたどりつく。荷田春満からはじまる国学の流れは、近代になってから、平田篤胤の門流によってひろめられた。(そういえば、私が、高校生のころ勉強した日本史の知識では、国学の「四大人」として、荷田春満からおぼえたのを、思い出す。)

ともあれ、今のわれわれにとって、『古事記』が「古典」であり、それを読み解くには、古代日本語……「やまとことば」といってもいいかもしれない……の研究と密接に関連している、このことはたしかである。だが、これも、ある意味では、本居宣長からの学問の継承のうえにのっているにすぎないとも言えるかもしれない。このところに、私としては、自覚的でありたいと思っている。

この本は、「宣長問題」に答えを出しているという本ではない。そうではなく、今の日本において、日本を語ろうとするとき、日本の古典を、あるいは、日本語について語ろうとするとき、本居宣長という存在を避けてとおることはできない、このことのもつ意味を再確認させてくれる本である。

『まんぷく』あれこれ「結婚はまだまだ先!」2018-10-07

2018-10-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第1週「結婚はまだまだ先!」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/

新しい朝ドラも見ることにした。こんどの朝ドラには、モデルがある。インスタントラーメンの開発者である。だが、そこは、ドラマとして、適宜アレンジして作っいくことになるのだろう。

第一週を見て思ったことをいささか。二点あげてみる。

第一には、昭和一三年からはじまって、昭和一六年までであった。日中戦争が本格化してから、さらに、太平洋戦争で米英と戦いをはじめるまでである。この時代、はたして、人びとの暮らしはどうだったのだろうか。このドラマでは、特に世相を描くということはないようだが、それでも、昭和一〇年代のこのころまでは、まだ物資もあり、生活に戦争が強く影響するということではないようだ。

第二には、その世相を背景としながらも、大阪のホテルで働く福子の姿が生き生きと描かれていた。最初の回から、ホテルの電話交換手になって、そこに電話をかけてきたのが、萬平(将来の夫)という設定。このあたりの脚本はうまいと感じた。自然な感じで、福子だけではなく、萬平のことも、ドラマで描くことに成功している。

以上の二点が、第一週を見て感じたことなどである。

このドラマは、インスタントラーメンの開発の物語であるのだが、第一回から、屋台のラーメンが登場してきていたのには、すこしおどろいた。これも、福子が、学校の友達たちと一緒に何か食べることになるという設定。

だが、この当時、屋台のラーメン店など、女学校を出たばかりの女性が気楽にたちよれるような存在だったのだろうか、ちょっと気になる。それから、ドラマの中の台詞で、「支那そば」と言っていたのにおどろいた。NHKがドラマの中とはいえ、「支那」のことばをつかっていた。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を確認してみると、この当時、すでに、「中華そば」のことばはあったようである。が、ここは、「支那そば」といった方が、より時代を感じさせることになるのかもしれない。

なお、「ラーメン」の初出は、一九三〇年である。昭和五年。「ラーメン」ということばは、昭和になってからのことばであることが知られる。

第一週を見た限りであるが、このドラマは、うまくいきそうな予感がしている。BK(大阪)制作の朝ドラとしては、『ごちそうさん』『マッサン』『あさが来た』と同じように期待できそうである。楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-10-14
この続きは、
やまもも書斎記 2018年10月14日
『まんぷく』あれこれ「…会いません、今は」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/14/8972800

『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子2018-10-08

2018-10-08 當山日出夫(とうやまひでお)

AI VS. 教科書が読めない子どもたち

新井紀子.『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』.東洋経済新報社.2018
https://store.toyokeizai.net/books/9784492762394/

話題の本ということで読んでみたものである。夏休みのはじめごろに読んだのだが、そのままになっていた。思うことをいささか。

第一は、AI(人工知能)に「シンギュラリティ」は無理である、という著者の主張に、納得できる。いやそうでではない、という人工知能研究者もいるかもしれないが、この本を読む限りでは、「シンギュラリティ」は無理である。

これは、私の専門の分野……日本語の文字ということになるが……そのコンピュータによる判読という研究領域と関係する。今、AIの技術をつかって文字、特に、古文書、古典籍などの、くずし字、変体仮名を読めるようにしようと研究がすすんでいる。

これに対して、私の思うところは、否定的である。人間は、文字だけを、図形だけを見ているのではない。文章を読んでいるのである。あるいは、ある書式を持った文書を読んでいるのである。文字の認識ということと、ことばの認識、さらには、文書の認識ということは、きりはなせない。

ただ、図形画像の認識技術だけをいくら向上させても、文章を、文書を、読めるようにはならないだろう。

第二は、この本のむしろメインで主張したいことであると思うのだが……昨今の、子どもたちの学力の低下である。文章が読解できない。問題が与えられても、その問題が分からない以前に、その問題文が理解できない。

近年の大学生の学力低下ということは、私も、狭い経験ながら、感じていることである。

一方で、人工知能は、東大の入試は無理でも、MARCHレベルの入試問題ならクリアできるところまで達している。では、このような時代の近い将来、子どもたちの教育はいかにあるべきか、ここのところが、この本の一番いいたいところであると理解して読んだ。

以上の二点が、この本を読んで感じたところである。

これは幻想なのであろうか……日本という国は、「教育」ということには、コストを惜しむ社会ではなかった……このようなイメージがあったのだが、それも、諸外国の事例など見ると、どうやらあやしいという感じになってきている。ともあれ、これからの日本にとって一番大事なのは、「教育」である。「教育」こそが、我が国の将来を決める。

この本、夏休みになって、試験の採点などが終わってから読んだかと憶えているのだが、「教育」ということの重要性をつくづくと感じたものである。

『西郷どん』あれこれ「江戸無血開城」2018-10-09

2018-10-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年9月30日、第37回「江戸無血開城」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/37/

前回は、
やまもも書斎記 2018年9月25日
『西郷どん』あれこれ「慶喜の首」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/25/8964800

この回、日曜の放送の予定であったが、台風のために中止になってしまった。私は、BSではやい時間に見ていた。その時に思ったことなど書いておくことにする。ただし、このブログへの掲載は、次の週のNHK総合での放送が終わってからとしておく。

江戸の無血開城は、幕末・維新のドラマにおいては、一つの見せ場である。どのように描くか、その興味で見ていた。

結局のところ……西郷としては、どうしても慶喜の首が欲しい。しかし、江戸の街で戦争を起こして、一般の人びとをまきこむことはさけたい。民を思う気持ちが西郷の胸の底にはある。そこで、苦渋の決断として、無血開城ということになった。まあ、これまでの、西郷という人物の描き方からみれば、妥当なところだろう。

西郷と勝の直談判の場面は、これまでのドラマなどにおいても多く描かれてきているところである。どうも、勝海舟が、徳川を背負って登場しているという感じがしなかった。これまでこのドラマで、勝海舟がなぜ幕府を代表することになるのか、そこのところの経緯が全く描かれてきていない。なぜ、慶喜は勝にすべてを託することになったのか、ここの部分に踏み込んだ描写があってもよかったのではないだろうか。

それから、慶喜もまた、大阪から江戸に逃げ帰ったのは、英仏の代理戦争に巻き込まれるのを避けるためであると語っていた。これは、これでいいとして、では、その後の、戊辰戦争のゆくすえと、諸外国との関係をどう見ればいいのだろうか。

このドラマ、西郷隆盛という「官軍」の側から見ている。これはこれでいいとしても、もうちょっと他の視点からの歴史というものがあってもいいように思われる。今の我々は歴史の結果として、西郷が勝利することを知っている。だが、江戸城攻撃、それから、戊辰戦争にいたる過程においては、その勝敗の帰趨は、そう定かではなかったかもしれない。別の視点から見れば、また、歴史も違って見えてくるだろう。

江戸無血開城という出来事は、やはり歴史の大きな転換点であったと思う。ここで、江戸の街と江戸城が無傷で残らなかったら、あるいは、戊辰戦争のゆくえがちがったものになっていたとしたら、日本の歴史は大きく異なっていただろう。

歴史の結果を知っている現代の目から見て、この回で描かれた江戸無血開城は、それなり理解できるものではあった。しかし、さらに、その当時の人びとの視点……それも、官軍と幕府だけに限らず、多様な視点……それを、持ち込んでもよかったのではないだろうか。

追記 2018-10-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年10月16日
『西郷どん』あれこれ「傷だらけの維新」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/16/8974594

マルバルコウ2018-10-10

2018-10-10 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は、マルバルコウ。

前回は、
やまもも書斎記 2018年10月3日
彼岸花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/03/8968078

我が家からすこし歩いた空き地に咲いている。赤い小さな花が地面に見える。写真に撮って、WEBで聞いてみた。マルバルコウというらしい。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。「マルバルコウ」で立項してある。漢字では、「丸葉縷紅・丸葉留紅」になる。

ヒルガオ科のつる性一年草。熱帯アメリカ原産で、はじめ観賞用に栽培されたが現在では野生化している。

とある。用例は、日本植物名彙(1884)からあるようだ。

近代になってから、日本にもたらされた花である。『言海』には載っていない。

マルバルコウ

マルバルコウ

マルバルコウ

マルバルコウ

マルバルコウ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-10-17
この続きは、
やまもも書斎記 2018年10月17日
ハナミズキの実
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/17/8977154