『天子蒙塵』(第四巻)浅田次郎2018-10-04

2018-10-04 當山日出夫(とうやまひでお)

天子蒙塵

浅田次郎.『天子蒙塵』(四).講談社.2018
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000313639

続きである。
やまもも書斎記 2018年6月28日
『天子蒙塵』(第三巻)浅田次郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/28/8904909

このシリーズは、『蒼穹の昴』以来、ずっと読んできている。そして、思うことは、だんだん面白くなくなる。また、この『天子蒙塵』に限っても、巻を追うごとに、つまらなくなっていく。浅田次郎は、もっと面白い小説を書くことのできる作家だったはずなのだが。

この第四巻でも、登場人物は虚実入り乱れている。張学良、溥儀といった実在の人物も出てくれば、梁文秀に、春児といった、『蒼穹の昴』からの人物も出てくる。そして、三巻から登場した、日本から駆け落ちしてきてきた男女、それに、二人の少年も。さらには、永田鉄山も、石原莞爾も出てくる。

だが、それぞれの話しが交わることがないのである。独立した話しとして展開して、他の話しとかかわることが基本的にない。この小説……特に第四巻に限らず、第一巻から思い出してみても……一貫したストーリーが貫かれているということが、読み取れないのである。

はっきり私の感じたことをのべるならば、事実は小説よりも奇なり……NHKの「映像の世紀」に登場した溥儀の姿に、この小説は及ばない。

『蒼穹の昴』、『珍妃の井戸』ぐらいの時代設定であるならば、虚構の人物を自在にあやつりながら、小説世界を構築できる。だが、時代が、だんだん近現代に近づいてくると、満洲国のことになってくると、フィクションの世界だけで描くことは無理があるとしか感じられない。

ところで、船戸与一の『満州国演義』シリーズは、単行本が完結した時にまとめて買って全部通して読んだのであるが、この小説であっても、登場人物を四人の兄弟に分散しないと、〈満州国〉、さらには、〈大東亜戦争〉を描くことができない。

あるいは、ここは、もとの『蒼穹の昴』の時点に帰って、梁文秀や春児といった登場人物、その、係累の人物を活躍させることで、壮大なフィクションの世界を構築することが、もし、できたなら、そのような方向をとるべきだったのではないだろうか。

はっきりいって、フィクションとしての小説が、歴史に、事実に、負けてしまっているのである。

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