『失われた時を求めて』集英社文庫(13)2018-12-03

2018-12-03 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(13)

マルセル・プルースト.鈴木道彦(訳).『失われた時を求めて』(13)見出された時Ⅱ
http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-761032-1

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月1日
『失われた時を求めて』集英社文庫(12)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/01/9005459

ようやく読み終わった。『失われた時を求めて』をふとおもいたって、読み始めた。第一巻(岩波文庫版)について書いたのが、11月1日である。それから、二日か三日に一冊の割合で読んでいって、岩波文庫版の既刊(一二巻)を読み終えて、続きを集英社文庫版で読んだ。集英社文庫版の最終巻(一三巻)を読み終えたのが。11月29日のこと。ほぼ、一ヶ月かかったことになる。この間、学校に教えに出かけるなどの用事があるときをのぞいて、本を読める時間のほとんどを使って読んだ。

途中で、読んだ別の本となると、『唐牛伝』(佐野眞一、小学館文庫)があるが、これは、『失われた時を求めて』を順番に買っていって、たまたま本がとどくのが遅れて、時間がちょっと空いてしまったので、手元に読もうと思って買ってあったのを読んだというような事情になる。

この作品、『失われた時を求めて』は、それを読むのについやす時間があってこそ、はじめてその作品の意味が分かってくると言ってもいいだろう。ただ、ストーリーのあらすじを追っているだけでは、この作品を読んだことにはならない。

最終巻「見出された時」の後半である。

ここでは、ゲルマント大公夫人のところでの仮装パーティーからはじまる。そこで、描かれるのは、「老い」と「死」である。この巻のパーティーには、かつての晩餐会やサロンでの会話のような面白さはない。登場人物は、みな年取って老いている。その「老い」の醜さを、残酷なまでに冷静な筆致で描き出している。

そして、「時」の流れがこの巻のテーマとなる。たとえば、次のような箇所。

「しかしながら、それよりいっそう真実なのは、人生がいろいろな人間や事件のあいだに神秘の糸を張りめぐらせ、その糸を交差させ、それを何重にもよりあわせて太い横糸を作りあげていることで、それゆえ私たちの過去のごく微細な一点も、ほかの点とのあいだに豊かな思い出の網目を持っており、ただそのなかのどれを選んでもコミュニケーションをするか、ということが残されるだけなのだ。」(p.243)

「時」の流れのなかにある、あまたの人間の姿……それを漏らさず描いてきたのが、この小説のこれまでの膨大な叙述ということになる。

そして、最後、

「空間のなかで人間にわりあてられた場所はごく狭いものだが、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの時期は互いにかけ離れていて、そのあいだに多くの日々が入りこんでいるのだから、人間の占める場所はどこまでも際限なく伸びているのだ――〈時〉のなかに。」(pp.280-281)

「時間」の中における存在として人間……最終的にここのところにたどりつく。

『失われた時を求めて』を頂点として、それ以前の一九世紀までの文学、思想について読んでいくこともできようし、また、これからさらに現代にいたるまでの、二〇世紀の文学、思想をたどることもできよう。ともあれ、この作品を通読することによって、一つの展望を手に入れることができたとは言えるだろう。