『冷血』高村薫(その二)2018-12-20

2018-12-20 當山日出夫(とうやまひでお)

冷血(下)

高村薫.『冷血』(上・下)(新潮文庫).新潮社.2018 (毎日新聞社.2012)
https://www.shinchosha.co.jp/book/134725/
https://www.shinchosha.co.jp/book/134726/

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月17日
『冷血』高村薫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/17/9012808

さて、下巻である。通常の警察小説であれば、上巻で終わるところ。下巻になって裁判のことがメインになってくるのだが、法廷小説ということでもない。上下巻を通じて描き出されているのは、この世にある犯罪の不条理、理不尽ということ、その不可解さということにつきるように思える。

結局、犯人たちは逮捕される。そして、取り調べが行われ、裁判がある。その裁判の結果は、ごく普通に予想できるもの。法廷ミステリにあるような、意外な真犯人、真相というドンデン返しはない。

描かれるのは、捜査と裁判にのぞむにあたっての刑事、合田雄一郎の様々な感慨。

たとえば次のような箇所。ちょっと長いが引用する。

「しかし、これは敗北だろうか。四ヵ月あまりの捜査の結果、最終的に目の前にあるのは、無辜の一家四人が畑のキャベツのように頭を叩き潰された事実だけであり、結局、そこにはどんな理由も目的も見当たらなかったのだが、警察の仕事は、そうした不毛な暴力に対して、社会的に理解可能ななにがしかの説明を付与することではない。あくまでも、司法手続きに備えて、そういう暴力があった事実を認定するに止まるのであり、そうだとすれば、警察としてやるべきことをやった時点で、自分たち刑事もまた一般市民として、不毛を前に立ちすくむのが正しいあり方ではないのか。否、むしろ立ちすくまなければならないのではないか。」(下巻、p.262)

今の世の中、報道されるいろんな犯罪、事件を見ていると、どうにもならない気持ちになることが多い。いったい何故、その犯行があったのか、犯人は何を考えていたのか。被害者、関係者は語る……真相を知りたい、と。だが、事件の真相というものは、そんなに簡単に解明できるものなのだろうか。ただひたすら不条理、理不尽としかいいようのないものに、その結果がどんなに悲惨なものであれ、耐えていくしかないものなのかもしれない。そして、一般市民としては、それを、傍観するにとどまることしかできないのかもしれない。

この『冷血』という作品を読んでみて、結局、なぜ、犯人たちはその事件を起こすにいたったのか、その真相を明らかにしていない。いや、明らかにできるようなものとして、その犯罪、裁判を描いてはいない。

だが、厳格な法手続のもとに裁判はおこなわれ、刑は執行される。

それが、事件の解決ということになるのだろうか。この小説は、事件を前にして、ただ立ちすくむしかない、人間というもの……その中には犯人もふくまれると読むこともできる……その、実存的不安とでもいうものを描き出しているかのごとくである。

そして、この『冷血』という小説、平成の年号が終わる時になって、文庫版で出たことの意味は大きいと思う。まさに、この小説は、平成という時代を描いている。失われた二十年、三十年と言われる平成の時代であるが、その時代に生きた人間の息づかいとでも言うべきものを、行間に感じ取ることができる。

来年、平成から次の時代になる。高村薫が、その時代をこれからどう描いていくことになるのか、読んでいきたい作家の一人である。

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