『罪と罰』(1)光文社古典新訳文庫2018-12-30

2018-12-30 當山日出夫(とうやまひでお)

罪と罰(1)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『罪と罰』(1)(光文社古典新訳文庫).2008
http://www.kotensinyaku.jp/books/book67.html

『白痴』を読み終えて(何度目かになるのだが)、次に手にしたのが『罪と罰』。これも、これまでに何度か読んでいる。新潮文庫の本だったり、それから、中央公論社の池田健太郎訳であったりである。

池田健太郎訳の『罪と罰』については、以前にちょっとだけふれたことがある。

やまもも書斎記 2016年5月28日
池田健太郎訳『罪と罰』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/28/8097383

今回は、光文社古典新訳文庫のシリーズとして、新しい亀山郁夫訳で読むことにした。

読んでみると、この訳文も実にいい。ちょっとくだけすぎかなという印象が無いではないが、しかし、非常に平明な日本語文で、すんなりと小説の世界にはいっていける。

さて、『罪と罰』であるが、この作品も印象的なのは、ラストのシーンである。無論、事件・犯罪の場面とかもあるが。あまり頻繁に登場するということはないが、ソーニャが魅力的である。

第一巻から読み始めて、ふと気になったことがある。この小説、第三人称視点から描かれているのだが、基本的に、主人公・ラスコーリニコフによりそっている。第一巻の第一部、第二部を読む限りであるが、基本的に、ラスコーリニコフからそんなに離れることがない。

この小説の冒頭の部分で、そのラスコーリニコフの視点を、さらに小説の時間からすれば未来から回想しているところがある。

たとえば、次のような箇所。

「後にこのときのことを、この数日間に起こった一部始終を、一刻一刻を、一点一点を、一コマ一コマを思いおこすたびに、彼はいつも、あるひとつの事情に迷信じみたショックを覚えたものだった。その事情というのは、そのじつ、とりたてて変わったことではなかったが。あとからそれを考えると、いつも何かしら、自分の運命の予告のように思えてならなかった。」(p.146)

これは、この小説での事件・犯罪にいたる前の描写である。

その目で、読んでいくと、この第一巻(第一部、第二部)で、時々ではあるが、描写の視点がラスコーリニコフから離れるところがあることに気付く。気付いたところには付箋をつけてみた。十箇所以上になるだろうか。

この第一巻では、小説はまだ序盤。ラスコーリニコフは事件をおこすが、まだ、そのことに悔悟の念は生じていない。それよりも、自分のおかれた不条理な状況にまいってしまっているようである。第二巻以降、新たな登場人物も現れて、物語はラスコーリニコフの心情をめぐって展開していくことになる。新しい亀山郁夫訳で、続きを読むことにしよう。

追記 2019-01-03
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月3日
『罪と罰』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/03/9020580