2019年に読みたい本のこと2019-01-01

2019-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

謹賀新年

今年(2019)に読んでみたい本のことなど、いささか。

まずは、折口信夫である。

私は、慶應の文学部(国文科)で学んだ。(その一方で、大学の外で、山田忠雄先生に師事して国語学を勉強したということもあるのだが。)

ともあれ、慶應の国文というところで、折口信夫を折りにふれて読む機会があった。いや、学生としては、普通の学生以上に読んだといっていいだろう。その全集(旧版)は、学部の一年の時に買ったと覚えている。育英会の奨学金がまとまってもらえる機会があった。それをつかって、折口信夫全集(中央公論社版)を、揃えたものである。

全集全巻を読むということはなかったが、その論文のいくつかは詳細にノートをとりながら精読したものである。詳しくよむと……その論文には、いくつかの論理の飛躍というべきところがあることに気付いた。それ以来ということもないが、ただ、折口がこう言っているということを根拠にものをいうひとを、私は信用しなくなっている。

また、その一方で、今になって感じることは、折口信夫を、国語学、日本語学の観点から読んだ仕事がほとんど無いことも、問題だと思っている。言語研究、国語学、日本語学の視点から読めば、折口信夫はどのように読めるだろうか。

私も、もう還暦はすぎた。新たに新規な研究テーマにとりかかろうという気もおこらない。それよりも、昔読んだ本を、今の観点から、詳しく再読してみたいという気がある。そのなかの一つとして、折口信夫を、国語学、日本語学の立場から、自分なりに読み返してみたいと思っている。

昨年からの刊行で、「精選 折口信夫」が出ている。慶應義塾大学出版会。

http://www.keio-up.co.jp/kup/gift/orikuchi.html

見ると、この選集のなかには、国語学、日本語学の巻は無いようだ。国語学、日本語学の観点から、折口信夫は読む価値はないのであろうか。そんなことはないだろうと思う。

それから、去年、本居宣長関係の本をいくつか読んだ。小林秀雄から、最近の熊野純彦にいたるまで、「本居宣長」という本を読んでみた。本居宣長は、その全集(筑摩版)は全巻揃いでもっているのだが、まだ、とりかかってはいない。これも、『源氏物語』『古事記』にかかわるところは、読んでみたい。とても、一年で読めるとは限らないかもしれないが、老年になっての読書である。いそぐこともない、じっくりと「古典」を読むことに時間を使いたい。

昨年末、暮れになってから読んだ本で印象に残っているのは、『最後の読書』(津野海太郎)がある。この本のなかで、最近のひとは日本の古典が読めなくなっていると指摘した箇所があって、深く思うところがあった。

若いときからの勉強として、国語学という分野で勉強したきた人間としては、もし、なにがしかのアドバンテージがあるとするならば、日本の「古典」を読めるということであろう。現代の校注本であれば、別に問題はない。あるいは、変体仮名で書かれた写本、版本でも読める。

日本の「古典」を、再度、自分なりに読んでおきたい。

それらか、古今東西の「古典文学」……狭義の小説にとどまらず、歴史や哲学などをふくめて……を読んでおきたい。

この年も、本を読むことで暮らしたいと思っている。

雨に濡れた南天の実2019-01-02

2019-01-02 當山日出夫(とうやまひでお)

お正月であるが、水曜日なので花の写真である。お正月だからということもないが、今日は南天の実。今日の写真は雨の日に写したものである。

前回は、
やまもも書斎記 2018年12月26日
メタセコイア
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/26/9017391

我が家にはいくつか南天の木があるのだが、たわわに実をつけるということがない。手入れが悪いせいか、あるいは、鳥が食べてしまうのか。その南天の実が雨に濡れているところを、写してみた。

雨が降る日は、外に出て写真を撮るということはない。しかし、雨の止んだあと、あるいは、小雨ぐらいなら、カメラと三脚を持って外に出る。南天の実が雨にぬれた、その滴を写すためである。雨が降った日には、またそれなりの写真の楽しみがある。

掲載したのは、去年の十二月のうちに写したもの。雨の日がなんどかあった。それを接写してみた。ニコンのDX(APS-C)のカメラをつかっている。このサイズのカメラで、思いっきり接写すると、ちょうど南天の実の一つが画面におさまるぐらいになる。

35ミリのフルサイズ、ミラーレスのカメラがこれから主流になりそうな気配である。しかし、花の写真、特に、接写をしようと思うと、DX(APS-C)の方が、ある意味で有利である。

今年も身近な花、植物などの写真を撮っていきたいと思っている。

ナンテン

ナンテン

ナンテン

ナンテン

ナンテン

Nikon D7500
AF-S VR Micro-NIKKOR 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-01-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月9日
センリョウの黄色い実
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/09/9023113

『罪と罰』(2)光文社古典新訳文庫2019-01-03

2019-01-03 當山日出夫(とうやまひでお)

罪と罰(2)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『罪と罰』(2)(光文社古典新訳文庫).光文社.2009
http://www.kotensinyaku.jp/books/book75.html

続きである。
やまもも書斎記 
『罪と罰』(1)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/30/9018767

第二巻(作品でいえば、第三部、第四部)であるが、これも一気に読んでしまった。ドストエフスキーの作品が、こんなにも面白いものであったのかと、今更ながら認識を新たにする。

この巻の読みどころとしては、次の二つが印象に残る。

第一は、ラスコーリニコフとソーニャが対面する場面。ここで、ソーニャは、ラスコーリニコフに聖書を読んできかせる。あいにく、キリスト教、また、聖書についての知識がないので、ここのところの宗教的な意味はよくわからないというのが正直なところである。しかし、ここでのソーニャのとのシーンが、後のラスコーリニコフの罪の意識への伏線になっていくことは理解されるところである。

第二は、それに続いて、ラスコーリニコフと予審判事とのシーン。ここでの予審判事の台詞(かなり長い)を読みながら、これを聞いているであろう、作品中のラスコーリニコフに共感してしまう思いがある。

以上の二点が、何度目になるだろうか、『罪と罰』を読み直してみて、印象に残っているところである。

それから、第一巻のところで、ふれた、作品を描く視点のことについていえば、この第二巻(第三部、第四部)になると、記述の視点がさらに自由度をましている。母と妹のことを描いたかと思うと(もうここでは、ラスコーリニコフから完全に離れている)、スヴィドリガイロフ(ソーニャを追ってきた男)の心のうちにまで入り込む。だが、小説全体としては、基本的に、ラスコーリニコフによりそっている。

以前、読んだときには、メインのストーリーとなる、ラスコーリニコフの心の変化に注意して読んだと覚えている。今回、読んでみたところでは、傍系の話しといってよいかもしれない、妹(ドゥーニャ)のことなどが、たくみに筋立てのなかに織り込まれていることに気付く。

次は、最後の第三巻である。楽しみに読むことにしよう。

追記 2019-01-04
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月4日
『罪と罰』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/04/9021008

『罪と罰』(3)光文社古典新訳文庫2019-01-04

2019-01-04 當山日出夫(とうやまひでお)

罪と罰(3)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『罪と罰』(1)(光文社古典新訳文庫).2009
http://www.kotensinyaku.jp/books/book85.html

続きである。
やまもも書斎記 
『罪と罰』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/03/9020580

これまで、『罪と罰』は、新潮文庫版( 工藤 精一郎)や、中公文庫版(池田健太郎訳)で読んできた。亀山郁夫訳で読むのは、これが最初になる。本は、出た時に買ってあったのだが。

光文社古典新訳文庫版で読んで思うことは次の二点。

第一に、スヴィドリガイロフという人物のこと。このような人物の登場に、私は、ドストエフスキーの小説家としての、天才を感じる。

この人物、出てこなくても、この小説は成立する。ラスコーリニコフの犯した犯罪、それから、ソーニャへの思い、これだけでも十分である。だが、それに加えて、このスヴィドリガイロフという人物登場することによって、この『罪と罰』という作品において、ある意味で「謎」がふかまっている。

第二に、やはり印象的なのは、エピローグにおける、ソーニャとラスコーリニコフ。ここまで小説を読んできて、最後のこのところにきて、何かしら浄化された気分になる。この二人の将来に未来を感じる。

ドストエフスキーという小説家は、一九世紀のなかばにおいて、世紀末を感じさせる作品を残したという印象があるのだが、この『罪と罰』のラストは、むしろ未来への希望を感じさせる。このあたりが、この作品の良さなのでもあろうが。逆に悲惨なラストであったならば、『罪と罰』の文学的感銘は、かなりちがったものになったであろう。

以上の二点が、何度目かに『罪と罰』を読んで感じたところである。

去年もそうであったが、冬休みの空いた時間にドストエフスキーをまとめて読み直している。ドストエフスキーの作品を読んでいると、文学のすべてがそこにあるという印象をうける。『罪と罰』は、昨年(2018)のうちに読み終わった。次に読んでいるのが『カラマーゾフの兄弟』。これも、新しい光文社古典新訳文庫版で読んでいる。

『最後の読書』津野海太郎(その二)2019-01-05

2019-01-05 當山日出夫(とうやまひでお)

最後の読書

続きである。
やまもも書斎記 2018年12月28日
『最後の読書』津野海太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/28/9018078

津野海太郎.『最後の読書』.新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/318533/

読みながら付箋をつけた箇所がいくつかある。そのうちのひとつが、電子書籍についての箇所。

第7章「蔵書との別れ」の106~107ページのあたり。

ちょっと引用してみると、

「でも、いまになってわかる。私たちがあんなに元気によくしゃべることができたのは、そこに、いま私はこんなことをやっている、この先はこうやっていくつもりだ、という実践の裏付けがあったからなのだ。」(p.107)

書籍とコンピュータの未来について語った箇所である。また、紀田順一郎が、なぜ、蔵書を処分するという段階になって、電子書籍のことについて語っていないのか、ということに思いをはせての部分である。

ここには、私は、半分は同意する。

私は、かつて、パソコンが世の中に登場しはじめてころから使ってきている。そこには、引用したような、「実践」ということがあった。私のつくってみた『和漢朗詠集漢字索引』なども、その「実践」のひとつの形であると言えるかもしれない。

だが、しかし、今は、半分は違った思いがある。

今の、電子書籍……その周縁には、人文情報学というような新しい学問分野を想定することもできる……が、ある程度実現してみて……たとえば、Kindleがそうである……こんなはずではなかったのに、という思いがある。かつて「電子書籍」は「夢」であった。こんなことができたらすばらしい、みんなは、そこに「夢」を語っていた。

しかし、今、実現している電子書籍はどうであろうか。かつての「夢」を実現してくれているであろうか。

私の答えは「否」である。

とはいえ、電子書籍、人文情報学、デジタル・ヒューマニティーズの将来に悲観しているというのともちょっとちがう。そこに、将来の希望を見てはいる。しかし、もはや、自分が実践的にそこにかかわろうとは思わなくなってしまった。(年をとったからだと言われればそれまでである。)

私は、紙の本にもどっている。本を、古典を、文学を、読んで時間をつかいたいと思う。

「夏目漱石」は、Kindle版に全集がはいっている。それは、外出するときは持ち歩くことにしている。今は「芥川龍之介」を読むことにしている。

しかし、本当に本を読んでいると感じるのは、やはり、自分の部屋の自分の机において、紙の本を読むときである。これからの「実践」は、若い人たちにまかせたいと思うようになってきている。私は、それを眺めながら、自分で好きな「古典」を読んでおきたいのである。

追記 2019-01-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月17日
『最後の読書』津野海太郎(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/17/9025947

『まんぷく』あれこれ「理事長!?」2019-01-06

2019-01-06 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第14週「理事長!?」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index14_190104.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年12月29日
『まんぷく』あれこれ「生きてさえいれば」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/29/9018409

お正月で休みの日があったので、第14週は、変則的に二回しか放送がなかった。

この二回の放送で、結局、萬平は池田の信用組合の理事長になることとなった。たぶん、次の展開は、舞台を池田にうつしてになるのだろう。いよいよ、インスタントラーメンの開発になるのかもしれない。

だが、信用組合の理事長である。インスタントラーメンとは、まだ何の関係もない。これが、これからどのようないきさつで、インスタントラーメンの開発につながっていくのか、見どころになるのかと思っている。

ところで、萬平は、全国的にも名前の知られた有名人、という設定。ダネイホンは、かなり売れたようである。

しかし、作っていたのは、町工場ともいえないような、元は製塩工場であった、小さな会社。その製品が、全国的に知られるには、もっと工場の規模も大きく、会社も大きくなければと思うのだが、どうだろうか。

ともあれ、このドラマも年を越して、新たな展開になりそうである。インスタントラーメンの開発まで、みとどけることにしよう。

追記 2019-01-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月13日
『まんぷく』あれこれ「後悔してるんですか?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/13/9024450

『カラマーゾフの兄弟』(1)光文社古典新訳文庫2019-01-07

2019-01-07 當山日出夫(とうやまひでお)

カラマーゾフの兄弟(1)

ドストエフスキー.『カラマーゾフの兄弟』(1)(光文社古典新訳文庫).2006
http://www.kotensinyaku.jp/books/book01.html

この作品をはじめて読んだのはいつのころだったろうか。学生のころに手にしたのを覚えている。そのころ、世界文学における最高峰はなんであるかとなると、まず名前の出てくるのが、この『カラマーゾフの兄弟』であった。

私の、ドストエフスキーの訳の好みからいえば、故・池田健太郎である。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』は、訳が出ている。中公文庫、「世界の文学」(中央公論社)。

今回は、新しい、亀山郁夫訳で読むことにした。実は、去年もこの作品は読んでいる。一年前の冬休み。今年も、冬休みの読書として、ドストエフスキーを読んでいる。去年は、池田健太郎訳で読んだのだが、今年は、光文社古典新訳文庫版の亀山郁夫訳で、全巻を読むことにした。

これは、もう老眼になってきたので、小さい昔の文庫本の字を読むのがつらくなってきたということもある。また、ドストエフスキーの新しい解釈として、亀山郁夫訳も読んでおきたいということもある。

一年ぶりによみなおしてみて(まだ、第一巻であるが)、この作品、読むたびに、その謎がふかまる。いったい、この小説は、何を語らんとしているのか、ただ、ストーリーを追うだけではなく、登場人物の語ることばに耳をかたむけて読んでいくと、さらにさらに、わけがわからなくなる。

どういえばいいいのだろうか……もはや「ロシア的」「カラマーゾフ的」としかいいようのない、作品世界がそこに展開される。そして、神、キリスト教、ロシアにおけるキリスト教とはいったい何であるのか、さらに謎がふかまるばかりである。

ただ、今回の読み直しで、印象に残ったところを一つだけ書いておくと、グルーシェニカとカテリーナの二人。この作品において、重要な位置を占める二人の女性であるが、これが、一つの人格の、二つの鏡に映った姿……このように理解される。ドストエフスキーの作品における女性の描き方をどう読むかは、作品を理解する重要な鍵になっているにちがいない。

追記 2019-01-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月10日
『カラマーゾフの兄弟』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/10/9023480

『いだてん』あれこれ「夜明け前」2019-01-08

2019-01-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』第1回「夜明け前」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/001/

今年のNHK大河ドラマは、『いだてん-東京オリムピック噺-」である。

第一回を見て感じることは……語りの複雑さを、ストーリー展開の勢いで突き抜けて見せた、といったところだろうか。

よく考えてみると、このドラマの構造はきわめて複雑である。昭和34年の古今亭志ん生からはじまる。その語りでもってこのドラマ全体が進行する。まず、1964(昭和39)年オリンピックの招致のエピソード。そして、さかのぼって明治。その中で、志ん生自身の若い時のことが出てくる。それを交えながら、明治の終わりごろ、日本で初めてオリンピックに参加することになる、そのいきさつが描かれる。

とにかく、第一回は勢いがあった。スピーディーである。

だが、これも考えてみるならば、スピードでもって、余計な議論をふっとばして見せた、このようにとれなくもない。

ドラマの第一回で出てきたことであるが、何のためにオリンピックに参加するのか、スポーツとは何か。ただ、勝敗を争うだけではなく、参加することに意義があるのである……嘉納治五郎は、このように語っていた。

しかしである……オリンピックに参加することに意義があるという名目のもとに、参加選手に「日本国」「日の丸」を背負わせてきたのが、日本とオリンピックの歴史であったのではないか。いや、来年(もう来年のことになってしまっている)2020年の東京オリンピックにおいても、メダルの目標を議論しているありさまである。本当に「参加することに意義がある」とするならば、メダルなど議論すべきではないはずである。

そして、「日の丸」を背負わされている競技の代表が、柔道でもある。東京オリンピック(64年)の時のことを思い出してみれば(私は、記憶にもっている……私は昭和30年の生まれ、東京オリンピックの時は小学生だった)、まさに「日の丸」のために柔道という競技があった。

その柔道のことで、この第一回のしめくくり「紀行」としていたのは、なんとも皮肉な番組作りであることかと思った。(これは、意地の悪い見方だろうか。)

さらに先を予想しておけばであるが……オリンピックと政治、国際情勢とは密接な関係がある。アジアにおいて、日露戦争に勝った「一等国・日本」が、オリンピックに参加するということ自体が、まさに政治的である。

無論、昭和15年(1940)年に開催予定であった「東京オリンピック」。さらには、その前の回の、ベルリンでのオリンピック。これなど、国際社会の情勢と密接不可分である。1964年の東京オリンピックも、アジアで初のオリンピックという政治性をおびている。(このことは、第一回でも描いていたことである。)

ただ、このようなオリンピックにまつわる政治的な側面というものを、ドラマの進行の勢いでふりはらって、とにかくスピードを持って描く、そして、そのような政治性を笑い飛ばしてしまうだけの「毒」をもった人物として、ビートたけし(古今亭志ん生)が起用された、このように見ることもできよう。

オリンピックと政治、ナショナリズム……こういったものをどのように描いてみせるか、また、志ん生がどれほどの「毒」となるのか、宮藤官九郎の脚本に期待して見ることにしよう。

追記 2019-01-15
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月15日
『いだてん』あれこれ「坊っちゃん」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/15/9025210

センリョウの黄色い実2019-01-09

2019-01-09 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。冬なので花はほとんどない。庭に目をやると、センリョウとかマンリョウの実が目につく。そして、まだ、ナンテンの実も残っている(もうほとんど鳥が食べてしまったようだが。)

前回は、
やまもも書斎記 2019年1月2日
雨に濡れた南天の実
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/02/9020187

センリョウについては、すでに書いている。
やまもも書斎記 2018年12月5日
センリョウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/12/05/9007076

これは黄色い実をつける。我が家のものを見ていると、赤い実をつけるものにくらべてそれほど多くの実をつけるようではない。また、これも、鳥が好んで食べてしまうようで、うかうかしていると、鳥に食べられてしまう。鳥に食べられてしまう前にと思って、カメラを持って庭に出て写したものである。

去年は、たしか、写真に撮ろうと思った時には、もうすでに鳥が食べてしまって、ほとんど実が残っていなかった。今年は、どうにか間に合ったようである。

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

Nikon D7500
AF-S VR Micro-NIKKOR 105mm f/2.8G IF-ED

追記 2019-01-16
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月16日
仙人草の花のあと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/16/9025594

『カラマーゾフの兄弟』(2)光文社古典新訳文庫2019-01-10

2019-01-10 當山日出夫(とうやまひでお)

カラマーゾフの兄弟(2)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『カラマーゾフの兄弟』(2)(光文社古典新訳文庫).2006
http://www.kotensinyaku.jp/books/book13.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月7日
『カラマーゾフの兄弟』(1)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/07/9022394

つくづく時代が変わったものである……ドストエフスキーの作品、なかでも『カラマーゾフの兄弟』を読むと、そう感じる。

私は、1955(昭和30)年の生まれである。つまり、学生のころ、種々の文学作品を読んでいた時代は、まさに東西冷戦のまっただなかの時代である。そのころ、ドストエフスキーの作品を読むとき、ソ連、それから、共産主義というものから、自由ではありえなかった。ドストエフスキーの作品に、ソ連共産主義の社会の預言めいたものを読みとるにせよ、逆に、そうではない立場を取るにせよ、なにがしか、ソ連共産主義の社会を意識せざるをえないところがあった。

それが、1989年のベルリンの壁の崩壊以後、世界は大きく変わった。それに対応して、世界の文学の読み方も変わってきたと感じるところがある。社会主義の崩壊から、30年近くになる。一世代がすぎた。これだけの時間がたって、ようやく、歴史の呪縛というべきものから、自由になって本を読むことができるようになった。少なくとも、私の場合、そうである。

『カラマーゾフの兄弟』の第二巻における、大審問官、それから、ゾシマ長老のこと……これらを読んで、ようやく、ロシア文学としてのドストエフスキーを読むことができるようになった、これが偽らざるところである。この作品、『カラマーゾフの兄弟』は、これまでに何度か読み返している。だが、今回ほど、面白いと思って読んだことはなかったかもしれない。

日本においては、「平成」という時代が終わろうとしている。一つの時代が終わる。「平成」は、東西冷戦終結後の、ある一つの時代でもあった。その時に、ドストエフスキーの作品を読む意義はどこにあるだろうか。十九世紀に書かれた小説を、二十一世紀になってから読んでいる。世紀を超えて読み継がれるべき世界の文学として、今、ドストエフスキーの作品があることを、強く思う。

無論、ドストエフスキーの小説を理解するためには、ロシアの社会・歴史、それから、特に、キリスト教についての理解が不可欠であることは言うまでもない。だが、そのような知識に未熟ながらも、翻訳本を読んでいて、思わず小説世界の中に入り込んでしまう自分に気付く。これが、文学を読む楽しみでなく、いったい何だというのであろうか。

追記 2019-01-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月11日
『カラマーゾフの兄弟』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/11/9023795