『罪と罰』(3)光文社古典新訳文庫2019-01-04

2019-01-04 當山日出夫(とうやまひでお)

罪と罰(3)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『罪と罰』(1)(光文社古典新訳文庫).2009
http://www.kotensinyaku.jp/books/book85.html

続きである。
やまもも書斎記 
『罪と罰』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/03/9020580

これまで、『罪と罰』は、新潮文庫版( 工藤 精一郎)や、中公文庫版(池田健太郎訳)で読んできた。亀山郁夫訳で読むのは、これが最初になる。本は、出た時に買ってあったのだが。

光文社古典新訳文庫版で読んで思うことは次の二点。

第一に、スヴィドリガイロフという人物のこと。このような人物の登場に、私は、ドストエフスキーの小説家としての、天才を感じる。

この人物、出てこなくても、この小説は成立する。ラスコーリニコフの犯した犯罪、それから、ソーニャへの思い、これだけでも十分である。だが、それに加えて、このスヴィドリガイロフという人物登場することによって、この『罪と罰』という作品において、ある意味で「謎」がふかまっている。

第二に、やはり印象的なのは、エピローグにおける、ソーニャとラスコーリニコフ。ここまで小説を読んできて、最後のこのところにきて、何かしら浄化された気分になる。この二人の将来に未来を感じる。

ドストエフスキーという小説家は、一九世紀のなかばにおいて、世紀末を感じさせる作品を残したという印象があるのだが、この『罪と罰』のラストは、むしろ未来への希望を感じさせる。このあたりが、この作品の良さなのでもあろうが。逆に悲惨なラストであったならば、『罪と罰』の文学的感銘は、かなりちがったものになったであろう。

以上の二点が、何度目かに『罪と罰』を読んで感じたところである。

去年もそうであったが、冬休みの空いた時間にドストエフスキーをまとめて読み直している。ドストエフスキーの作品を読んでいると、文学のすべてがそこにあるという印象をうける。『罪と罰』は、昨年(2018)のうちに読み終わった。次に読んでいるのが『カラマーゾフの兄弟』。これも、新しい光文社古典新訳文庫版で読んでいる。

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