『カラマーゾフの兄弟』(2)光文社古典新訳文庫2019-01-10

2019-01-10 當山日出夫(とうやまひでお)

カラマーゾフの兄弟(2)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『カラマーゾフの兄弟』(2)(光文社古典新訳文庫).2006
http://www.kotensinyaku.jp/books/book13.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月7日
『カラマーゾフの兄弟』(1)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/07/9022394

つくづく時代が変わったものである……ドストエフスキーの作品、なかでも『カラマーゾフの兄弟』を読むと、そう感じる。

私は、1955(昭和30)年の生まれである。つまり、学生のころ、種々の文学作品を読んでいた時代は、まさに東西冷戦のまっただなかの時代である。そのころ、ドストエフスキーの作品を読むとき、ソ連、それから、共産主義というものから、自由ではありえなかった。ドストエフスキーの作品に、ソ連共産主義の社会の預言めいたものを読みとるにせよ、逆に、そうではない立場を取るにせよ、なにがしか、ソ連共産主義の社会を意識せざるをえないところがあった。

それが、1989年のベルリンの壁の崩壊以後、世界は大きく変わった。それに対応して、世界の文学の読み方も変わってきたと感じるところがある。社会主義の崩壊から、30年近くになる。一世代がすぎた。これだけの時間がたって、ようやく、歴史の呪縛というべきものから、自由になって本を読むことができるようになった。少なくとも、私の場合、そうである。

『カラマーゾフの兄弟』の第二巻における、大審問官、それから、ゾシマ長老のこと……これらを読んで、ようやく、ロシア文学としてのドストエフスキーを読むことができるようになった、これが偽らざるところである。この作品、『カラマーゾフの兄弟』は、これまでに何度か読み返している。だが、今回ほど、面白いと思って読んだことはなかったかもしれない。

日本においては、「平成」という時代が終わろうとしている。一つの時代が終わる。「平成」は、東西冷戦終結後の、ある一つの時代でもあった。その時に、ドストエフスキーの作品を読む意義はどこにあるだろうか。十九世紀に書かれた小説を、二十一世紀になってから読んでいる。世紀を超えて読み継がれるべき世界の文学として、今、ドストエフスキーの作品があることを、強く思う。

無論、ドストエフスキーの小説を理解するためには、ロシアの社会・歴史、それから、特に、キリスト教についての理解が不可欠であることは言うまでもない。だが、そのような知識に未熟ながらも、翻訳本を読んでいて、思わず小説世界の中に入り込んでしまう自分に気付く。これが、文学を読む楽しみでなく、いったい何だというのであろうか。

追記 2019-01-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月11日
『カラマーゾフの兄弟』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/11/9023795

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