『悪霊』(3)光文社古典新訳文庫2019-01-24

2019-01-24 當山日出夫(とうやまひでお)

悪霊(3)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『悪霊』(3)(光文社古典新訳文庫).光文社.2011
http://www.kotensinyaku.jp/books/book139.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月21日
『悪霊』(2)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/21/9027341

この作品は、帝政ロシアにおいても(ドストエフスキーの同時代)、また、その後のソ連の時代においても、政治的にいろいろ問題のあった作品である。その後、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の崩壊というできごとを経て、ようやくこの作品を、作品に即して素直に読むことのできる時代になった、このようにいえるだろう。

私が、この作品をはじめて読んだのは、たしか学生の時だったと覚えている。その時代は、まさに東西冷戦のまっただ中の時代であった。どうしても、ある種の政治的バイアスのかかった読み方をしてしまったものだと、今になって思う。というよりも、複雑な人間関係、登場人物、よくわからないロシア語の人名、というようなこともあって、熟読、味読するという感じではなかった。それが、新しい光文社の亀山郁夫訳で再度読んでみて、ようやくこの作品の端緒を感じ取れたような気がする。

はっきりいって、まだ、端緒である。『悪霊』の描き出した世界は、深く広く暗い……これから、機会をみつけて、再々度、再々々度、読み返してみたいとは思っている。

第三巻になって、ようやく「事件」がおこる。何人もの人が死ぬ。そして、最後のシーンにいたる。

この最後のシーンは確かに印象的なのだが、今回読んでみて心にのこったのが、その前の、ヴェルホヴェンスキー氏のところ。ここで、福音書を売る女性が登場する。この田舎町での描写が、印象深い。

『悪霊』は陰鬱な作品というイメージがあるのだが……そして、たしかに、陰惨な場面もあるのだが……それを描き出すのと併行して語られるいくつかのドラマ……男と女の物語であり、親と子どもの物語であり……その人間ドラマの心情の機微というものを感じる。いくつかの人間のドラマを感じ取りながら読むことができたのが、今回の読書ということになるであろうか。

『悪霊』に必要以上に政治性を持ち込まず、人間のドラマとして読むのが、これからのこの作品の読み方なのかもしれない。

追記 2019-01-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年1月25日
『悪霊』(別巻)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/25/9028715