『悪霊』(別巻)光文社古典新訳文庫2019-01-25

2019-01-25 當山日出夫(とうやまひでお)

悪霊(別巻)

ドストエフスキー.亀山郁夫(訳).『悪霊 別巻』(光文社古典新訳文庫).光文社.2012
http://www.kotensinyaku.jp/books/book143.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月24日
『悪霊』(3)光文社古典新訳文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/24/9028389

『悪霊』を、光文社古典新訳文庫(亀山郁夫訳)で読んでいって、この巻が別巻としてある。これは、異例のことである。ここに収めてあるのは、「チーホンのもとで」の三つの異本のそれぞれの訳である。

本来、この章は、『悪霊』の中の一つの章として書かれながらも、当時の社会的な事情……検閲……ということを配慮して、刊行されなかったものである。それが、後になって、各種の異本(校正原稿、清書原稿など)がみつかった。それも、三種類ある。どれが、本当に著者、ドストエフスキーの意図した原稿になるのか、簡単には定めがたい。

このようなこと、文学作品における異文、異本ということは、日本文学などの研究においても問題となる。私などは、このようなことを考えるのは、どちらかといえば好きな方である。というよりも、異本、異文ということを考えることを、これまでの勉強の主な柱としてきたといってもよい。

だが、この年になって、楽しみのために本を読むということをしたくなった。この時、異文、異本ということは気にならないではないが、かつてのように、そう重視することがなくなったというのが本心でもある。異文、異本があり得るということを念頭においたうえで、とりあえず、全体として通読できるテキストがあればいい。

これは、昨年『失われた時を求めて』を読んだときにも感じたことである。

「チーホンのもとで」であるが、これについては、先に書いたように、『悪霊』全体を通読するなかで、何かしら異質なものを感じる。簡単にいえば、この小説の語り手として登場してきている、ヴェルホヴェンスキー氏の視点を完全に離れて、スタヴローギンの心の中にはいっていってしまっているのである。スタヴローギンを中心とした小説として『悪霊』を読むならば、ある意味で最も重要な章ということになる。

この章、それから異本については、これから、再々度、『悪霊』を読み返す……そのような機会をこれからも作っていきたい……その時に、改めて、もう一度たちかえって考えてみたい。

ともあれ、日本語訳の文庫本ということでありながらも、異なるテキストを訳して収録してある、光文社古典新訳文庫版の仕事は、貴重なものだと思う。