『源氏物語』(八)新潮日本古典集成2019-03-02

2019-03-02 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(八)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(七)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620825/

続きである。
やまもも書斎記 2019年3月1日
『源氏物語』(七)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/01/9042032

『源氏物語』五十四帖を読むのに、二週間ぐらいかかっただろうか。途中、一日、家を留守にした以外は、基本的にずっと本を読んできた。全巻を一気に読んでしまったといってよい。

そして、最後に残るのは……文学的感銘である。

若い時にも、『源氏物語』は読んでいる。その後も、折りにふれて手にしてきた作品である。だが、全体を一つの文学作品として順番に通読するというのは、今回がはじめてである。読んでみて、この作品が、日本文学の中で、あるいは、世界の文学の中で高く評価される理由が、自ずと納得されることになる。まさに文学であるとしかいいようがない。

そのラストのシーンについては、若い時に読んだ印象では、なんだか中途半端な終わり方をしているという印象を持ったのを憶えている。しかし、今回、読み直してみて、この作品の終わり方としては、これはまさにこのような形で終わらざるをえない、そのように読めることに気付く。

今回は、新潮の日本古典集成版で読んだ。底本は、青表紙本系統の善本を選んで校訂してある。ただし、表記は歴史的仮名遣いに改めてある。無論、いわゆる平安古文であるので、すぐには意味のとれないところもある。が、これも、最小限の理解は傍注でなんとかなる。また、それでも理解の及ばないところは頭注を読むことになる。

読みながら、宇治十帖のヒロインである浮舟の心中思惟の中にのめりこんで読んでしまっている自分に気付くことがあった。今から千年以上も前に書かれた物語作品であるが、その心理描写に、二十一世紀の今日になって読んで、感銘を覚える。文学が時代を超えて読み継がれるということは、こういう体験を通じてなのであろう。

『源氏物語』のことばについて、いろいろ思うところもある。だが、言語資料として見るよりも、まず、文学作品として『源氏物語』がある、このことの認識を新たにした。これから先、文学を、古典を、読むことに時間をつかっていきたいと思う。

岩波文庫版の『源氏物語』の第五巻がようやく刊行になるようだ。次回は、岩波文庫版で読むことにしようかと思う。

ただ古い作品が古典であるのではない。それが読まれ続けてきた歴史があり、そして、今なお、そのテキストを読むことに文学的感銘を感じる、これこそ古典でなければならない。

追記 2020-01-13
この本を次に読んだときのことは、
やまもも書斎記 2020年1月13日
新潮日本古典集成『源氏物語』(八)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/13/9201415