『平家物語』(二)岩波文庫2019-03-07

2019-03-07 當山日出夫(とうやまひでお)

平家物語(二)

梶原正昭・山下宏明(校注).『平家物語』(二)(岩波文庫).岩波書店.1999
https://www.iwanami.co.jp/book/b245704.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年3月4日
『平家物語』(一)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/04/9043160

岩波文庫は、全部で四巻につくってある。その二巻目まで読んで、全体の前半が終わることになる。ここまで読んだところで、清盛は死ぬ。「あっち死に」である。

『平家物語』についても、最初から順番に読んでおきたいと思って読んでいる。若いときに、全部のページを繰ったことはあるのだが、順番に全部を読み通すということはなかった。あるいは、索引をひいて、その該当箇所を探すということはやっている。そのためにも、全体の概要を知らなければならないので、とにかく読むことには読んでいた。

この年になって……『平家物語』の表現をかりて言えば、「七旬」になって……ただひたすらテキストを読みたいと思って読んでいる。

『平家物語』であれば、強いて現代語訳が必要ということもない。要所要所に注がついていればいい。とはいえ、本文について細かなことをいえば、岩波文庫版の『平家物語』も、やや不満が無いわけではない。ルビが現代仮名遣いにつくってある。これは、これで一つの方針であろうが、どうせなら、開合や四つ仮名などを区別して、歴史的仮名遣いで作っておいてほしいところである。それでも、疑問の残るところは、注に書いてあればいいのだが。

この第二巻を読んで、思うところには付箋をつけて読んでみた。踊り字、「く」がいったい何に対して機能しているか、ちょっと気になった。

短い単位としては、一つの語、あるいは、文字にして二~三文字、に対して機能することになる。だが、そうではない例もいくつか見いだせる。

例えば、

「六位や候」とあって、「く」とある。これは、「六位や候、六位や候」と、かなり長い単位に対して機能していると判断される。このような箇所、他にもいくつか見いだせる。(p.58)

このことが気になっているのは、『徒然草』の「猫またよや」のあとの「く」の判読についてである。「猫またよや、よや」なのか、「猫またよや、猫またよや」なのか……若いとき、山田忠雄先生のもとで勉強していたとき、話題になったこととして記憶している。

ただ、二文節以上の繰り返しが、すべて「く」であるかというとそうでもない。

「竜王やある、竜王やある」のように表記されている例もある。(p.196)

岩波文庫の本文から、これ以上のことは言えない。これ以上のことを考えるためには、底本となった本の原本か複製本などで、表記の実態を見るしかない。あるいは、新日本古典大系本の本文である程度のことは言えるかもしれないが。

それから、「しおじお」が出てきたので付箋をつけた。

「八重の塩路を」(p.22)

なぜこの箇所が気になったかというと、

やまもも書斎記 2017年5月20日
『椰子の実』の歌詞を誤解していた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/20/8567357

「やえのしおじお」……この箇所、『平家物語』に従って解釈するのならば、「塩路を」ということになる。

『平家物語』と島崎藤村を結びつけて考える人もあまりいないかと思って、ここに書いておく。

一つの文学作品として『平家物語』をここまで読んだ印象としては、まさに歴史の変化を「運命」ということばであらわしている文学である、ということである。「運命」のことばは、この作品中にもでてくる。

「運命の末になる事あらはなりしかば」(p.322)

「運命」ということばの意味していることは、現代の我々とは違っているのかもしれない。しかし、そうは思ってみても、歴史の進歩とか変革とかという概念になじんでいる現代の我々からすれば、「運命」ということばで平家の没落と源氏の勃興を見ていた時代の人びとに思いをはせておきたい気がする。

追記 2019-03-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年3月8日
『平家物語』(三)岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/08/9044547